ありました。
 味覚の上では、いよいよかわいてめぐまれないが、聞く耳の上では清冷きわまる清水、甘露の響。それはまさしくこの谷つづきの峯の上あたりから降り来《きた》る物の音です。しかも、見上げたところの四囲の絶壁――曾《かつ》て白馬の頂で夢に見た弘法大師が、千足の草鞋《わらじ》を用意して、なお登り得なかったという越中の剣山《つるぎざん》に何十倍すると思われる連脈の上より、何という清冷なる鈴の音だろう。この一つの鈴のみが、天上より落ち来る唯一の物象であり、物心であり、妙音であり、甘露であります。
「たれか来るのだな」
 竜之助が、その峯つづきを見上げると、わけて覚円峯のようにすっきりした大巌山の上より、まさしく一箇の物があって動いて来るのを認めました。
 その高い峯の上から、絶壁を伝って通して下って来る者、しかもその者によって、この清冷なる物の音が起されていることも疑いありません。
 みるみる一点の黒いものが、その灰白の幾千万丈の巌石の間から徐々《そろそろ》と下りて来る、人だ!
 あのまた懸絶のところを、一人で降りて来る奴がある。あいつが、この鈴を鳴らしているのだ。
 驚いた命知らずだが、
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