前のベトベトした搗きたてのお供餅のようなのが、一重ねずつになって無数に連絡し、湖面のいずれからともなく漂泊として漂い来るのです。手近いのに杖をさしてみると、それが意外にも人間の臀部《でんぶ》であることを知りました。しかも色の白い、肉の肥えた女の体の一部分だけが、無数にこうして漂い来るのであることを知ると、竜之助は嘲《あざけ》られたように、自分を嘲り返すことを忘れませんでした。
 その持てる杖で、ぐんぐん湖面を掻きまわすと、その杖の先について来た藻のようなもののそれが、昆布のようにどろどろになった女の黒髪であることを見て、怒ってその竹の杖を湖面に打込んだが、杖は池の底深くくぐり入って、再び現われては来ません。
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
という風の音か、波の音か、それが山の峡《かい》と、山の脚との間から、絶えず襲い来るもののように聞えるけれども、その風と波とは、少しもこのところまで押寄せては来ないで、ただその真白い搗《つ》きたての餅のような一重ねのみが、深紅な湖面にベットリと浮いたまま、あとからあとから限りなく自分の眼前を過ぎて行くばかりです。
 かねて聞いたところに
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