、お雪ちゃんのことが、竜之助の眼に浮んで来ました。
 こんな図々しい女に引きずられて、またも京洛《けいらく》の天地に業《ごう》を曝《さら》しに行くくらいなら、いっそ畜生谷へ落ちようとも、山を下らないのがよかった。
 なんにしても、この女も、今晩のうちに殺してしまわねばならぬ女だ。

         五十八

 しかし、その夜の明け方に、竜之助がうなされたのは、水を飲まんとして、とある山蔭を下って来た時のことであります。
 眼の前に展開する大いなる湖を見ました。その周囲の山は、いつぞやお雪ちゃんに導かれて、越中の大蓮華《だいれんげ》であるの、加賀の白山であるのと指示された、それとほぼ同様でありましたけれども、その山脚が悉《ことごと》くこの湖水の中に没していることが違います。
 山の飛騨の国を一歩だけ出で、水の美濃の国に一歩だけ入ったとは言いながら、右の夢には、これから導かれようとする京洛の天地も、東海の海もうつらずに、やっぱり山又山の中の湖水でありました。
 暁の咽喉《のど》がかわいたから、酔覚めの水を飲みたいつもりで、山を下りて、この湖辺まで来たのですが、さて、飲もうとして汀《みぎわ
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