かみさんは、退引ならぬと見えて、帳面の間へ筆を置いて、ついと立ち上りました。間もなく女中の案内で、広い座敷を抜けて本宅の裏庭へ来てみると、土蔵と袖垣とのこちらに引添って、二つの駕籠が置かれてありました。
庭下駄を突っかけて、その駕籠の傍へ寄って来たおかみさんは、何か後ろめたいように見返しました時、前の駕籠の垂《たれ》が細目にあいて、
「おかみさん――」
極めて忍びやかな女の声。
「まあ、お蘭様じゃございませんか」
「おかみさん、くわしいことは何もお聞きにならずに、本当に内証でわたしの後生一生の頼みをお聞き下さいまし」
「まあ、何かは存じませんが、ちょっとお上りください、ちょっと……」
「いいえ、それができません、これから直ぐに通さなければなりません、仔細はあとでおわかりになりますが、おかみさん、あなたの着古しでもなんでもよろしうございますから、上から下までそっくり一重《ひとかさ》ねと、それからあなたのお手許で御都合のできるだけのお金をお貸し下さいませ」
「そんなことはお安いことでございますが、いったいこれはどうしたのでございます、ちょっとはよろしうございましょう……ちょっとは」
「
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