の精神が、清水の湧くように融釈して参るのでございましょうかと存じます」
弁信はここまで喋《しゃべ》り来ったが、それで喋り尽きたというわけでもなし、喋り疲れたというのでもありませんでした。
「で、つまり、わたくしが聞き覚えましたところの起信論の要領というものがだいたい左様なものでございまして、真如が無明によって薫習《くんじゅう》せられて、この一切世間相を生じてまいります。ここに薫習という言葉は梨耶とは別に、また起信論の中の一つの言葉でございますから、これを究めるもまた容易ならぬ論議を生じて参るのでございましょう。同じ薫習の見方でも、唯識論《ゆいしきろん》の方と、起信論の方とは大分ちがいまして、唯識論の方では、能薫《のうくん》となるものは所薫とならず、所薫となるものは能薫とならず、ということに決っているそうでございますが、起信論の方でございますと、能薫となるものもまた所薫となり、所薫となるものもまた能薫となるように説いてございますそうで、そこで、唯識論は、真如をもって能薫の力もなく、所薫の議もなきものとし、真如は薫習に関係のないものとしておりますけれど、起信論によりますと、真如は能薫とも
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