ますが、それで絶望をなすってはいけません。そうしますると仏様のみが御承知になっているということを知っているのは誰でございましょう。馬鳴菩薩《めみょうぼさつ》がお書きになった起信論でございますから、仏様のみ御承知の世界を御保証になった馬鳴菩薩は、またその境涯の存在を御存じでなければならないはずではございませんか、仏の持ち給う宝を菩薩が御保証をなさるのでございます。すでに菩薩の御指量をお許しになるとすれば、二乗凡夫のともがらもまたその宝の所在を窺《うかが》い知ることを許されねばならぬ約束ではございませんか。知識は至らずとも、信仰は至るものでございます――起信論の終りに念仏を説かれた古徳の到れり尽せる御親切のほどを思うと、投地礼拝して感泣するよりほかはございません。まことに起信論は論議のための論議ではございません、理窟のための理窟ではございません、闘争のために葛藤を捲き起された次第ではございませんで、功徳の如法性を普《あまね》く一切衆生界に回向《えこう》せられんがための思召《おぼしめ》しで馬鳴菩薩がお作りになったものでございますから、それで、わたくしたちの頭にも、あの一万七百二十七字の御著作
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