人間が人間の奪い合いをはじめました。それは物と物との奪い合いでもあり、肉と肉との奪い合いでもあるようだが、要するに先を争って逃げようとする者に対しての交通機関と、人夫の奪い合いが原因であります。
 北原賢次は存外、落着いていました。事実は、こう足を怪我していては、落着いているよりほかはせんすべがなかったのかも知れないが、それでも、昂然として言いました、
「それ見ろ、人間があんまりふざけると、山までがおこり出すわ」
 小気味よしと見たのではあるまいが、また、自分が逃げ出すことのできない腹癒《はらい》せの私怨とのみは思われません。
 全く、少しでも離れたところで見ていると、こうも人間がふざけ切ったのでは、山がおこり出すのも無理はない、と思われたのでしょう。
 天災は天災、人事は人事、ポンペイの町が腐敗していたことと、ヴェスビアスの山が火を噴き出したことと何のかかわりあらんやと言ってしまえばそれまでだが、地殻のゆるむところに人気もまたゆるむ、物心一元の科学的根拠をまだ発見した人はないが、人心のゆるむところに天変地異が来《きた》ることを、古来、人間は無意味に看過することはできなかった性癖がある
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