えてしきりに頷《うなず》きながら、旅立ちの仕度をする。
 一方、道庵は、すべての用意を整えた上に、なお悠々と机に向って何かしている。見れば大奉書の紙をのべて、何か恭《うやうや》しく認《したた》めている。それを認め終ると、どこからか青竹の手頃なのを一本持ち出して来て、その上へしきりに手細工を試みているから、米友が、これも少し変だと覗《のぞ》きこむと、その手頃の五尺ばかりな青竹の上へ、道庵がお手前物の薬を盛る匙《さじ》を一本、しきりに結びつけているものですから、
「先生、そりゃ何のお呪《まじな》いだえ」
「おまじないなものか、これさえありゃ敵何百騎|来《きた》るとも……」
と、ぶつぶつ言いながら、その匙を青竹に結びつけてしまうと、肩に担《かつ》いで道庵が門口へと下りたちました。
 その時は、もう箱車が玄関へ横附けになっている。その車には鉄の檻が載せてあって、中には熊の子がいる。
 そこで、今度は間違いなく、足許の明るい時に、道庵主従は永らくの名古屋の宿を出立しました。
 もう暇乞いもとうに済ましてあり、見送りも見送ってもらってあるから、生きているうちに葬式を済ましてしまったような身軽で出立
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