三十四

 寝間を飛び出した宇津木兵馬は、そのまま庭を越えて、道場へ入って神前へ燈明《とうみょう》をかかげ、道場備附けの袴《はかま》をはいて、居合を三本抜きました。
 ここで兵馬は、心気が頓《とみ》に爽やかになり、今までの圧迫が払われて、わが心の邪道を断つには剣を揮《ふる》うに越したことはないと、いまさらに喜びを感じていると――
 一方の口、すなわち本邸から続いたところの入口が、スーッと外から押し開かれる。
 執拗千万な推参者、ここまで淫魔めがあとを追うて来おったか! 兵馬は居合腰に構えたまま、心の中に充分の怒気を含んでおりますと、戸口をスーッとあけて中へ入るとまた、つとめて音のしないようにスーッと締めてしまって、こっちを振向いたのは、同じような寝まき姿であるけれども、物そのものは全く違っている。
 すなわち予期していたものの侵入者は、先刻のあのむんむといきれるような肉の塊りであったにも拘らず、ここへ姿を現わしたのは、まだ妙齢の初々《ういうい》しい娘の子であったものですから、兵馬は、怒気も悪気も消えて、今晩はまあどうして、こうも女の戸惑いをする晩だ! と、全く呆《あき》れて
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