九ツ、八ツ、とうとう暮六ツが鳴ったのに、室の内外は日脚の短さ加減のほかの何者も来《きた》りおかすものはない。
 とうとう日が暮れたけれども、物の気配が全く起りませんでした。こうなってみると、物は動かないが、象《かたち》が変るのを如何《いかん》ともすることはできません。
 日のカンカン照っている時、縁に立てきった障子の紙の新しいのは、人の心を壮《さか》んにするけれども、日が全く没した時に、中に燈火の気配もなく、前に雨戸が立てきられるでもなく、白い障子紙がそのまま夜気を受けてさらされている色は、また極めて陰深のものになりました。
 つまり、日中あけられない戸に凄《すご》いものが漂うとすれば、夜分隠されない障子の色はすさまじいものでなければならぬ。このすさまじい障子の色は、ずんずんこのままで夜色に浸ってゆく。

         三十二

 こうして、夜はしんしんと更くるに任せて行くが、誰あって障子の肌の夜寒を憐むものはないのです。
 無論あのままで、訪ねて来る人も、出て行く人もなかったのですが、夜もほとんど三更ともいってよい時分になると、ひそかにその裏の縁側の南天の蔭が物音を立て、そこから
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