鼠のようになって這《は》い出した一つの人影を見出す――それは、鶴寿堂の若い番頭政吉に相違ない。でもよかった、息を吹き返して、ここまで逃げ出すことができた点に於ては、幸内よりもズット優った運命を恵まれている。やっと南天の茂みから這い出した若者のホッと安心したのは束《つか》の間《ま》――かわいそうにこの若者の後ろにはやっぱりのがれられない縄がついておりました。
 その縄を辿《たど》って後ろから続く人影こそは、いつもの通り、甲府の城下でも、江戸の本所でも、夜な夜な一人歩きして、闇を喰い、血を吸わねば生きておられない人。
 今晩は一人、お先供《さきとも》があるまでのものです。
 つまり、飛騨の高山の貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしく言えば、高山屈指の穀屋の後家さんの男妾《おとこめかけ》を業としていた浅吉という色男の弟だと言われた同苗《どうみょう》政吉――が、この怪物のために時に取ってのお先供を仰せつかりました。
 政公の両腕は後ろへ括《くく》り上げられている。そこから長さ一丈ばかりになる一条の縄がつづいて、それが竜之助の片手に取られている。
 お猿が、めでたやな、といったようなあんばいに。

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