りに人は無し、寺男を兼ねた夫婦の家は少し下のところにあるが、これは毎日、山仕事に行ってしまって、夕方でなければ戻らないことを政吉がよく知っている。
「もし、お雪様、お休みでございますか、鶴寿堂でございますが」
恐る恐る中を覗いて見たが陰深として暗い。でも、このまま引返すわけにはゆかない。充分、二の足も三の足も踏んでみた末に、この若い番頭は、ようようその一枚の戸口から、座敷の上へ這《は》い上りました。
「お留守でございますか」
駄目を押したが、手答えもなく、そろそろと侵入してみたが誰も咎《とが》める者もない。
「おやおや、お雪様にも似合わしからぬ、とりちらかしてございますなあ、何か急用で出ていらしったのか。それにしても……」
蒲団は敷きっぱなしであるし、机の上はと見れば、自分の註文の仕事が、やりっぱなしで、紙が辛うじて文鎮の先に食留められている。平常着《ふだんぎ》だけは脱いで、よそゆきの着替えをして行った形跡は充分あるから、それが若い番頭にとっては、せめてもの気休めとなるくらいのものです。いずれにしても慌《あわただ》しいことの限りである、と番頭は、そぞろ荒涼の思いに堪えられなかった
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