怪訝《けげん》の念を刺激したと見えます。それは尤《もっと》もな怪訝で、廻って見ると怪訝が一種の恐怖に近いものになりましたのは、あけないならあけないでいいが、その一枚だけが確かにあけられてあることを発見したからです。
若い番頭――たしか、新お代官の寵者《おもいもの》お蘭さんの言うところによると、浅吉の弟で政吉といったと覚えている。
政吉はその時に慄《ふる》え上りました。
盗賊? 人殺し?
同時に、まえ言った通り、敷居の溝と沓《くつ》ぬぎのあたり一面に血がこぼれているのではないかと打たれました。
だが、血はこぼれていなかったけれども、縁の下のところと、沓ぬぎとにおびただしい人の足跡がありました。
「あっ!」
と政吉が慄え上って、中を覗《のぞ》き込んだ縁の内側にはお雪ちゃんのさしていた、赤い塗櫛《ぬりぐし》が落ちているのを認めました。
「もし、お雪様、もし……」
辛《かろ》うじて呼んでみたけれども、返事がないのです。ないのがあたりまえで、返事をする者があるくらいなら、戸がポカンと口をあいているはずがないのです。
政吉は恐怖に襲われて、誰か人を呼んでみようとしたけれども、このあた
前へ
次へ
全433ページ中208ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング