やく高くなっても、物の音は、内からも外からも起りません。寺男夫婦はこのごろ、夜の明けないうちに山伐りに出かけてしまうのを例とする。
 日が高くなったのに、いつもあけらるべきはずの家の戸があかないのは寂しいものだけれども、その戸の一枚だけがあけられて、他のみんなが閉されたままであることは、むしろ凄いものです。最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱《くつぬぎ》に血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
 こうしている間に、ずんずん時が経ち、日がのぼります。矮鶏《ちゃぼ》が夫婦で連れ添うて餌をあさりに来たことのほかには、いよいよ訪《おとな》うものなしで、開け放されたいちいちの戸が、唖《おし》の如く動かないでいるばかりでした。
 けれども、ようやく一人の人があって、麓から登って来ました。例によって背に負うた萌黄色《もえぎいろ》の風呂敷包だけを見ても、これぞ毎日の日課としてやって来る鶴寿堂の若い番頭であることは疑いありません。
 果して、若い番頭は、えっちら、おっちらとやって来て、
「おや――」
とつぶやきました。あのこまめなお雪ちゃんが、今朝はまだ戸もあけていないということがまず
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