岳の裾山を過ぎるに、身重《みおも》にあれば歩むさへ、おのれが思ふにまかせざりけん、そのあたりに足踏みすべらし、谷間へ深く落ちいりしが、不思議に身持を破らざれば、いかにもして登らばやと、打仰ぎて上を見るに、四方に岩の覆ひ重なり、昼なほ暗き深谷の底、ことには雪の降りうづみ、更に登らんよしなければ頻《しき》りに悲しみもだえつつ、ここかしこ見まはせば、横の方に大洞《おほあな》ありて、奥より出で来るもの見えたり、荒栲《あらたへ》ふたたび驚き怖れ、ひとみを定めてこれを見ると、丈《たけ》抜群の熊なりければ、さてわが身はこれがために、命を取らるるものよと思へど、いかにもせんすべなければ、心のうちに思案なし、けものは人の物言ふをわきまへべきやうはなけれど、懐妊の身のかかる難儀を告げて命を乞うてみばや、その上にて聞きわけずばそれまでよと思ひさだめ、進み近づく熊の前に跪《ひざまづ》き、涙を流して、かかるところに落ちいりしは、わが身のなせしあやまちなれば、よしやそなたに噛まるるとも、恨む心はさらさらなけれど、ただ恐ろしきは、みごもりて早や五月になる身故、宿せしみづ子のあさましや、この世に出づる日もあらで……」
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