》かずと思い直しながら、なお立去り難いこの地点に、地蔵様をうしろにして暫く立って眺むるこし方《かた》の武州路。
 ここを下れば、もうその武蔵の国の山は見納めということになるのだ、と思えば尽きせぬ名残《なご》りはあるけれど、見返ることは徒らに、無益の涙を流して愛慾の葛藤を増すばかり。
「さあ、お地蔵様、お大切《だいじ》にござらっしゃれませ――いつまたわしらは帰って来られるか、来られねえか、そのことはわからねえでござんすが、それでも、諸国修行のことが無事に済みました暁は、またここの地点でお目にかかりまする。わしらの故郷といっては、どこがどうだかわからねえでございますから、無事に諸国修行が済みましたら、東西南北を合わせて、わしらはひとつこの峠に草《くさ》の庵《いおり》というようなものを建て、この世の安楽と後生の追善のために、ここでお地蔵様のお守をして一生を暮したいもんだと心がけてはおりますがねえ……」
 与八は再び跪《ひざまず》いて、自分のこしらえた地蔵菩薩にお暇乞いを申し上げ、
「南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》地蔵菩薩――お別れのついでにこの笠をさし上げましょう、峠の上は下界より嵐
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