狼藉《ろうぜき》を蒙《こうむ》る以前に、船はゆらりゆらりと船渠《ドック》を出てしまいました。
花火大砲も届かず、悪口雑言も響かぬところに、悠々として辷《すべ》り出してしまった船の形が、闇の波の中に鉄《くろがね》の橋を架けたように浮き進んでいるのを、暴民らは如何《いかん》ともすることができず、手を振り、足を踏んで、徒《いたず》らに叫びわめくのみでありました。
二十三
郁太郎を背負うた与八が、大菩薩峠を越えたのはあれから三日目。峠の上には雪がありました。
ここには自分の建てた地蔵菩薩、その台座のあとさきに植えた撫子《なでしこ》も雪に埋れたのを掻《か》き起して、あたり隈なく箒をあて、持って来た香と花とを手向《たむ》ける。
幼きものを御衣《みころも》の、もすその中に掻き抱き給うなる大慈大悲の御前《おんまえ》、三千世界のいずれのところか菩薩捨身の地ならざるはなし、と教えられながらも、特にこの地点が与八のためには忘れられないものにもなり、立去り難いものにもなるが、何をいうにも六千尺の峠、時は初冬、天候の程も測りがたない、背に負うた幼な児の上を思うても下りを急ぐに如《し
前へ
次へ
全433ページ中154ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング