なめでたい鹿島立ちの席に、みんなが無邪気に興が乗ればのるほど悲しくなって、どうしても意地が張りきれないのは、自分ながらどうしたものだ。
 ああ、たまらない。

         二十二

 だが、七兵衛は泣いているわけではないのです。ただ、無限に悲しい思いがするだけで、それが、何の理由に出でるか、よくわからないのみですから、すべてに於て取乱すというようなことはありません。
「ああ、忘れられた奴がまだ一つあるわい」
 今、七兵衛はムクの物《もの》の気《け》を感じたのです。ムクはないたわけでも、吠《ほ》えたのでもないけれども、この窓の下へ歩み寄って唸《うな》っているのはムクだ――ということを七兵衛が感得しました。
「ムク!」
 この犬が、この頃に至って、自分というものに対する敵意をすっかり取払ってくれたことは、七兵衛にとって驚異でなければならない。
 今晩、この犬は忘れられていたのだな。本来ならば、この犬にも今晩の食卓の一席を与えてしかるべきものであった。誰もムクをと言うものもなかったのは、ムクを忘れたのではない、忘れねばこそというわけなんだろう。七兵衛は、今まであけなかった窓を開いて見る
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