。後にこの事あらはれ、市尹《しゐん》の庁によび出され、人のせぬことをするはなぐさみといへども一罪なりとて、両翼をとりあげその住巷を追放せられて、他の巷《ちまた》にうつしかへられける。一時の笑柄《わらひぐさ》のみなりしかど、珍しきことなればしるす、寛政の前のことなり」
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とある。これを仮りに寛政のはじめ(西暦一七八九年)と見れば、道庵現在の時より約八十年の昔のことで、西洋ではじめてグライダーを作った独逸人《ドイツじん》オットー・リリエンタールの発明が一八八九年とすれば、それは日本の明治二十二年に当るから、これより先、徳川十一代の将軍|家斉《いえなり》の寛政のはじめ、一七八九年に、すでに日本の岡山にグライダーを作って成功した人があったという事実は、驚異すべきものに相違ない。日本の鎖国の泰平が、斯様《かよう》に、無名の科学的天才も圧殺してしまった例は他にも少なくないと考えられる。
 岡山の幸吉の事績によって、津田生は、金助や、弓張月や、夢想兵衛のロマンスと違った、科学的技術者が日本に厳存していたことを知ると共に、苦心惨憺して、すでに没収され、湮滅《いんめつ》せられた幸吉のあとを探ったものと見えます。
 幸いなことには、津田生は父祖伝来の家産を豊かに持っていたから、研究費には差支えることは免れたが、不幸なことには、この熱心な発明慾が周囲の誰にも諒解《りょうかい》されないのみならず、それに冷笑と詬罵《こうば》とが注がれたことは、古今東西の発明家が味わった運命と同じことでありました。
 しかし、それらの誤解と、冷笑と、詬罵の間に、津田生が超然として発明製作の実行に精進していたことは、少なくとも古今東西の発明家の持つ態度と同じものでありました。
 しかし、こういう意味の孤立も、孤立はやっぱり孤立だから、知己のないということを津田生も相当に淋しく感じていたことに相違ない。ところが、このたび江戸から流入して来た先生、賢愚不肖とも名状すべからざる狂想を演じつつある先生だが、ドコかに津田生が惚れ込み、ある席上でこの話を持ち出してみると、皆まで聞かず道庵が双手を挙げて賛成してしまいました。
 えらい! 日本にもそういう若いのが出なけりゃあならねえと承和の昔から、道庵が待ち望んでいたのがそれだ、万物の霊長たる人間が、鳥類のやることが出来ねえということがあるものか、異国を見ねえ、第一あの黒船を見ねえ、鉄砲を見ねえ、早撮写《はやとりうつ》しの機械を見るがいい、切支丹の魔術でもなんでもねえんだ、みんな理窟から組み立てて行って、理詰めにして編み出した仕事なんだ、荘周や馬琴なんぞは甘めえもので、ありゃお前《めえ》、頭のてっぺんから出たうわごと[#「うわごと」に傍点]に過ぎねえが、異国のやつらときた日にゃ、いちいち物を理詰めに見て行くからかなわねえ、お前たちは知るめえが、(その実、先生もどうだか)このごろ異国のやつらは蒸気車というやつをこしらえやがったぜ、つまり陸蒸気《おかじょうき》さ――黒船を陸《おか》へ上げて蒸気の力で車を走らせようというんだから変ってらあな、只は動かねえよ、陸の上へ鉄の棒を二本しいて、その上をコロコロッと転がすんだ、そうすると瞬《まばた》きをする間に千里も向うへ突っぱしってポーッと笛を鳴らすという仕掛なんだぜ、そりゃお前、途中の山だって、川だって、その勢いでみんな突き抜いて通るんだぜ。
 だから、お前、その伝で理詰めに機械さえ出来りゃ空が飛べねえという話があるものか、海の上だってああして黒船が突っ走るじゃねえか、陸の上だって、山のドテッ腹を蹴破って陸蒸気が通らあな、水も山もねえ空の上を走るなんぞは朝飯前の仕事でなけりゃあならねえのを、人間というやつ、何か落ちてやあしねえかと下ばっかり見て歩くもんだから、今もって鳥獣の真似《まね》もできねえんだ、津田君がそこを見てとって、一番、新手を出してくれようというのは、いいところに気がついたものだ、さすが金の鯱《しゃちほこ》が空の上へ吊し上っている名古屋ッ児だけある。
 こういうような趣意で激励するのみならず、道庵が津田生の私設工場へ飛んで来て、実際を検分し、その器械の要所要所の説明を聞きながら、同時に忠告を加える要点に、侮り易《やす》からざるものがありました。あんまりふざけきって、子供だましのような激励には恐れ入らざるを得なかったが、実際、機械を見せて批評と技術の講釈に至って見ると、津田生も舌を捲くような痛いところを道庵がいちいち利《き》かせてくれるものですから、道庵先生に対する興味と尊敬をいよいよ加えてくると共に、世上すべて無理解の中にあって、かりそめにもこういう知己を得たということが、百万の味方を得たと同様な勇気になって、いちいち先生先生と道庵の意見を仰いだものですから、いっ
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