たん引下った道庵の熱がまた増長してしまい、このごろでは、もはや夜も昼も津田式飛行機製作所に入浸りの有様で、この分では飛行機が完成されない限り、道庵の旅行は無期中止という結果になるかも知れないのです。

         十五

 津田生の満足は、たとうるに物もない有様だが、いい面《つら》の皮なのは宇治山田の米友です。
 せっかく意気込んだ出鼻をこれに挫《くじ》かれたのみならず、更に幾日かかるか測り知られないこの無期延期の期間中は、津田生の製作所に入り浸っている道庵先生のために、毎日一度ずつ弁当を運ばねばならぬ役目まで背負わされてしまいました。
 しかし、また一方には、この米友の不運を緩和するに足る一つの有力なる事情もありました。
 それというのは、例の親の毛皮を慕う小熊を、首尾よく自分の所有とすることができたので、これに就いてはお角さんが香具師《やし》の方へよく渡りをつけてくれ、道庵先生が大奮発で、なけなしの財布を逆さにしてくれたればこそで、この点に於ては米友も、親方としてのお角さんに頭の上らないこと以前の如く、恩師としての道庵に一層の感謝を捧げなければならないことになり、斯様《かよう》な独断な、乱暴な無期延期を申し渡されても、その不平が幾分か緩和されて、
「ちぇッ、やんなっちゃあな」
と舌打ちをしながらも、熊を入れた鉄の檻の前にどっかと坐りこんで、熊に餌をやりながら、御機嫌斜めならぬものがあります。
「それ、何でも好きなものを食いな、遠慮は要らねえよ、お前は今日からおいらの子分なんだ――いいかい、おいらはお前をムクしゅう[#「ムクしゅう」に傍点]の身代りだと思って大切にしてやるから、お前もムクだけのエラ物《ぶつ》になりな。実際ムクはエラかったぜ、あのくらいの犬は人間にだってありゃしねえや」
と、米友は檻の前へ、勝栗だの、煎餅《せんべい》だの、甘藷だの、にんじん[#「にんじん」に傍点]、ごぼう[#「ごぼう」に傍点]だのと、八百屋店のように押並べて、片っ端からそれを与えつつ訓戒を加えるのでありました。この小熊に向って訓戒を加える時には、いつもそのお手本に出されるのが、ムク犬のことであります。
「ムクを見な!」
 事実、米友は心からこの子熊をムク犬のように仕立てたいのでありましょう。そうしてお君もいないし、ムクも行方《ゆくえ》がわからない今日このごろは、せめてこの小熊の成人――熊――によって、自らを慰めようとする切なる心もないではないのです。
 ところが――熊は熊であっても、猛獣としては日本第一であり、犬よりも段違いであるところの熊でこそあっても、その素質としては、どうも米友の期待するようにばかりはゆかぬと見え、せっかく米友が訓戒を加えている時に、そっぽを向いて取合わなかったり、どうかすると、しゃあしゃあとして放尿をやらかしたりするかと見れば、食物をあてがうと遠慮なく手を延ばして来る。
「やいやい、ムクはそんなじゃなかったぜ、ガツガツするなよ、お行儀よくしてろ、お前にやるといって持って来たものだから、誰にもやりゃしねえ。やい、手前、ほんとうに行儀を知らねえ奴だな、ムクはそうじゃなかったぜ、てめえ食えと言わなけりゃ、お日待の御馳走を眼の前に置いたって手をつけるんじゃねえや、身《み》じんまくだって、いつ、どこへ行ってどうして始末をして来たか、ちっともわからねえくらいのものだ。それに手前ときた日にゃあ……」
 米友はこう言って呆《あき》れ返りながら、それでも癇癪《かんしゃく》を起さず、
「まあ、仕方がねえや、ムクなんて犬は広い世間に二つとある犬じゃなし、それにもう年を食ってるからな、物事を心得ていらあな。手前はまだ若いから無理もねえといえば無理もねえのさ」
 米友としては、つとめて気を練らして、食物を与えることから、おしめ[#「おしめ」に傍点]の世話までして育ててやることにしている。
 米友のこの稀有《けう》なる心づくしが少しもわからない子熊は、食物をあてがわれる時のほか、恩人を眼中に置かず、排泄《はいせつ》の世話まで米友に焼かせているくせに、ちょっと眼をはなせば脱走を試みたがって油断もスキもならない。先日、道庵の講演の席を滅茶にしたのも、実は米友として、熊の素質をムクを標準に信じ過ぎたものだから、あんな結果になった。
 米友としては、檻を出して、座敷へも、庭へも、連れ出して遊ばせてやりたくもあるし、また足柄山の金太郎は、絶えず熊と角力《すもう》をとって戯れていたということだから、子熊ではあっても、熊というやつがどのくらいの力を持っているものだか、自分の手でひとつ験《ため》してみてやりたいと思うのは山々だが、それができないということを感じ、こうして檻からちょっとも外へ出さないで置くだけに、いっそう骨も折れる。
 すべてに於てムクなんぞと
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