は比較にならない、訓練の欠けた代物《しろもの》ではあるけれど、ただ一つ感心なのは、親熊の毛皮を忘れないということだけで、ためしにほかの毛皮を投げ込んでやっても、それは見向きもせずに、親の毛皮をのみ後生大事に守り、それにじゃれついて喜んでいる。
その点だけが、ただ米友を、眼を円くして唸《うな》らせるだけのものでした。
一通り熊の世話を焼いてしまってみると、さあ時分時《じぶんどき》だ――これからひとつ道庵先生のために、弁当を運ばねばならぬ時だと思い出してきました。
発明製作に没頭しているといえば、感心なようだが、弁当をわざわざ遠方から運ばせてまでも、没頭しなければならないほどの多忙がどこにあるか、その理由はわからないながら、とにかく、毎日、この時間に、このくらいの弁当を持って来な、と言いつけられている通りを、米友の責任観念がなおざりにせしめてはおかないのです。
しかるべき重箱の中に詰めた弁当が、例によって窃《ひそ》かに風呂敷に包んだまま差廻されているのを、米友は無雑作に首根っ子へ結びつけ、
「じゃあ熊公、行って来るぜ、おとなしくしてな」
こう言って縁側へ出て用意の杖槍をとると、沓《くつ》ぬぎの草履《ぞうり》を突っかけたものです。
十六
かくして米友は、富士見原までやって来ました。
津田生の発明室は、ここから遠からぬ大井町にあるのです。
富士見原へ来て見ると、今や大きな小屋がけの足場を組んでいるところでした。
何か町が立つのだな、芝居か、軽業か、そうだそうだ、この間、鳴海の方から相撲連がたくさん繰込んで来たから、多分この小屋がけで晴天何日かの大相撲が興行されるんだな。
米友もそう合点《がてん》して、富士見原を東へ通り、大井町へ出て津田の別荘を叩きました。ここがすなわち津田生と道庵とが、飛行機の製作に夢中になっているところ。
例の通り、弁当を投げ出して、弁当ガラを受取り、それをまた前の風呂敷に包み直して、首根っ子へ結びつけて、さっさと帰る。
帰り道には、蒲焼《かばやき》の方にいる親方のお角さんをたずねて、御機嫌を伺って行こうと思いました。
お角さんの宿へ来て見ると、いやもう、雑多な客で賑《にぎ》わっている。
米友は、ちょっと縁側から挨拶をして行こうとすると、お角さんが、
「友さん、御飯でも食べていっちゃどうだい、蒲焼でもおごってあげようか、お前の好きな団子もあるよ」
芝居の太夫元ででもあるらしいお客を相手にしながら、こちらを向いて米友を呼びかける。
「おいらは腹がくちいから……」
「先生にも困ったものだね、何か飛車《とびぐるま》をこしらえることに夢中になってるというじゃないか」
「うん」
「で、お前、いつ立つの」
「いつだかわからなくなっちゃった」
「いい酔興だねえ――そうして友さん、熊はどんなだえ」
「おかげでピンピンしていますよ」
「それはまあ、よかったね」
「さよなら」
「もう帰るの?」
「うん」
「じゃ、またおいで――誰か友兄いに落雁《らくがん》をおやりよ」
「はい、友さん」
「いや、どうも有難う」
「名物だから、持って行って食べてごらん」
「こんなには要らねえ」
「お前、食べきれなけりゃ熊におやり、ちょうどいいから、首根っ子に背負っているのが先生のお弁当がらだろう、それへ入れて持っておいでよ」
こうして夥《おびただ》しい落雁を背負わされた米友は、つい順路を間違えて、あらぬ町々をうろつきながら宿へ帰って来て見ると、庭に大きな引札が落ちている。取り上げて見ると、上の方には人の首を二つ、大きく丸の中へ入れて刷り出し、その下には太く、
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「当地初お目見得
日本武芸総本家
安直先生
金茶金十郎」
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その翌日もまた、米友は例によって弁当背負い。町を通ってみると、辻々に人だかりがある。
覗《のぞ》いて見ると素敵《すてき》もなく大きい辻ビラ――昨日の引札と同じことの日本武芸の総本家。
次の人だかりも、うっかり誘われて覗き込むとやっぱり同じもの――ずいぶん思い切って豊富にビラをまきやがったな、ビラでおどかそうというのだろう、ビラなんぞにこっちゃ驚かねえが、日本武芸総本家の文字が目ざわりだ。
と見ると、「当所初お目見得」の文字の横に「当る三日より富士見原広場に於て晴天十日興行」と記してある。
「ははあ、なんだ、あれだよ、昨日見た大きな小屋がけか、あれが、その武芸総本家の見世物なんだよ」
笑わしやがらあ……
米友がこう言ってあざ笑っているうちに、早くもその富士見原に着いてしまったのです。
着いて見ると、工事の早いこと、葭簀《よしず》と蓆《むしろ》っ張《ぱ》りではあるが、もう出来上って装飾にとりかかっている、当
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