立往生をしてしまった弁慶でさえ怖くてちかよれないのだから、恐れ入ったとは言いながら、生きて手足も動かせるようになっているこの男の傍へ、誰も暫くの間は近づけなかったのも無理はないが、やがて圧倒的に抑えてみると、この兇賊は、ほんとうにたあいなく縄にかかってしまいました。
この場合、たあいなく縄にかかったということが、見ている人の総てをまた圧倒的にしてしまいました。
こうして兇賊が引き立てられ、場面が整理され、群集が堵《と》に着いた時分、例の高燈籠《たかどうろう》の下で小さな尼を介抱しているところのお銀様を見ました。
そうしている時に、ハッハッと息を切った声で、
「お嬢様じゃございませんか、いやはや、お探し申しましたぜ、表通りはあの騒ぎでござんしょう、裏へ来て見るとまた捕物騒ぎ、気が気じゃございません」
ハッハッと息をついて、しきりに腰をかがめているのは、お角がおともにつれて来た庄公です。
十四
道庵先生も、人間は引揚げ時が肝腎だ、ぐらいのことはよく知っておりました。
名古屋に於ける自分というものは、時間に於ても、行動に於ても、もう、かなりの分量になっていることを知り、待遇に於ても、名声に於ても、むしろ過ぎたりとも及ばざるのおそれなきことをたんのう[#「たんのう」に傍点]したから、もうこの辺で名残《なご》りを惜しむ方が、明哲《めいてつ》気を保つ所以《ゆえん》だと気がつかなくてはならないはずです。
そこで、米友に向っても出立の宣告をしておいて、今日明日ということになって、計らずも一大事件が突発して、道庵をして引くに引かれぬ羽目に置き、更に若干、出発のことを延期させねばならないことに立至りました。
というのは、医学館の書生で津田というのが、このごろ、飛行機の発明に凝《こ》り出して、もうほとんど九分八厘まで仕上げたから、この際ぜひひとつその完成を道庵先生に見届けてもらい、且つその試験飛行の際には同乗が叶《かな》わなければ、せめて式場へ参列なりとしていただきたいという、切なる希望を申し出でたからであります。
この津田生は、どうしたものか、医学館の講演以来、ほとんど崇拝的に道庵先生に傾倒して来たものですから、道庵も可愛ゆくなり、ことにその熱心な科学的研究心に対して、どうしても、道庵先生の気象として、その希望を刎《は》ねつけるわけにはゆかなかったのです。で、いよいよ明日あたりは出発という時に、またまた数日の延期を宣告して、せっかく旅装の宇治山田の米友を苦笑させました。
この当時に於て、飛行機の研究及び製作ということは、いかにも突飛のようでありますけれども、突飛でも、空想でもなく、実際に道庵先生を首肯せしむるだけの科学及び技術上の根拠を持っているのでした。
津田生は、どこからこの発明の技術を伝習したか、とにかく、製作に於ては、或る先人の設計を土台としそれに幾多の創意を加え、工夫を凝《こ》らして、工場を自邸内に設け、ほとんど寝食を忘れてそれに尽しておりました。
そもそも、津田生が飛行機の発明を企てるに至った最初の動機というものは、例の柿の木金助が凧《たこ》に乗って、名古屋城の天守の金の鯱《しゃちほこ》を盗みに行ったという物語から起っているということです。事実の有無《うむ》はわからないながら、幼な物語に柿の木金助の一くだりを聞いたり、夢想兵衛のお伽噺《とぎばなし》を吹き込まれたりしているうちに、人間は機械を用いさえすれば、空中の飛行も決して空想ではないという信念を立てるに至りました。
そうして、医学館に通って解剖を研究するうちに、どうしても飛行機の標準は、鳥類の骨格を研究することから始めなければならぬと覚りました。そうして、船はいかに進歩しても魚の形を出づることはできないように、鳥の形を無視しては飛行機の実現は覚束ないものだという原則を摘《つま》み出しました。
そのうちに、ふと菅茶山翁《かんさざんおう》の「筆のすさび」という書物を見ると、こんなことが見出されました――
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「備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて其身の軽重、羽翼の長短を計り、我身の重さをかけくらべ、自ら羽翼を製し、機を設けて胸の前にて繰り搏《う》つて飛行す、地より直ぐに※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》ることあたはず、屋上よりはうちて出づ。ある夜、郊外をかけ廻りて、一所|野宴《やえん》するを下に視《み》て、もし知れる人にやと近より見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて思はず落ちたりければ、その男女驚き叫びてにげはしりける。あとには酒肴さはに残りたるを、幸吉飽くまで飲食ひしてまた飛ばんとするに、地よりはたち※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》りがたき故、羽翼ををさめ歩して帰りける
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