尼寺を犯したということだ。金品の被害のほかに、こいつの凌辱《りょうじょく》を蒙った無惨な尼たちが幾人あるか知れない――そのうちに、露見し、捕手二人を傷つけたが、ついに搦《から》め取られて入牢《じゅろう》の身となったのが、安政年間だとかいうこと。
牢内では牢名主をつとめて、幅を利《き》かしていたが、やがて獄門にかかるべき斬罪を予期し、某月某日の夜、子鉄が巨魁《きょかい》となって破牢を企てた。その党に加わるもの三十人、かねがね牢番を欺いて用意して置いた、鑿《のみ》、縄梯子、丸に八の字の目印と、町役所と認《したた》めたそれぞれの弓張提灯を携え、衣類、十手、早縄まで取揃え、牢を破って乗越えた上に、これらの道具立てで、捕手の役人になりすまし、大手を振って逃げのびて、その夜、堀川通りの小寺宇右衛門ほか二カ所の屋敷を襲うて、金銀、衣類、刀剣を奪い取り、そうして、おのおの思い思いに高飛びをしたという。
それが、今日まで厳密なる探索の手にかからず、全く消息を絶っていた。ある時は遠州秋葉山の下で見た者があると言い、ある時は駿河の興津《おきつ》に現われたなんぞと噂《うわさ》には出たが、かいもく行方が知れなかった。その兇賊が、今日という今日、網の目にひっかかったのだ。
というわけですから、盗賊も尋常一様の盗賊とは違い、土地の人気を聳動《しょうどう》させるだけの価値はある。自然、捕方の役人たちの、ここにいたるまでの苦心惨憺も思いやらるると共に、ここにいたっても、なお且つ安心せられざるものが多分にあると言わなければならぬ。どのみち、こうまで袋の鼠としてしまった以上は、どう間違っても逃しっこはないのだが、とどめを刺すまでには相当の犠牲を思わねばならぬ。なるべく最小の犠牲をもってしたいことは卑怯の心ではない、自然、最初は劇《はげ》しいかけ声と共に、遠巻きに巻いて圧迫を試みて行くだけの戦略ですが、囲む者も、囲まれるものも、またそれを眺むるものも、真蒼《まっさお》です。
笠の台だけを残して、それをまだ解き捨てる余裕のない創男の兇賊子鉄の頭は、常ならばいい笑い物ですけれども、笑うものなどは一人もない、捕方も、見る者も、眼が釣上り、面《かお》が真蒼《まっさお》になって、息がはずんでいるばかりです。
お銀様は、囲まれた子鉄の面を、真正面からまざまざと見ることができました。
不思議なことには、この時、群衆の中に起った一種の同情が、捕方の上よりは、むしろ囲みを受けた味鋺《あじま》の子鉄の上に注がれて来たようです。
直接、間接に、名古屋城下がこの一兇賊のために、どのくらいの恐怖と迷惑とを蒙らせられたかわからないのに、こうなってみると、子鉄も憐れなものだ! と、一種の同情心のようなものが湧くのを如何《いかん》ともすることができないようです。
赤銅色《しゃくどういろ》に黒ずんだ面に、額から頬までの大創を浮ばせ、それに、笠を飛ばされて台ばかり紐で結えた面構え。誰も笑う者はないが、自分が一種名状すべからざる皮肉の色をたたえて、ニヤニヤと笑っている。笑っているのではなかろうが、笑っているように見える。
その間に、ジリジリと押す捕方のすべては、いよいよ真蒼になって、髪の元結《もとゆい》が刎《は》ね切れたものさえあるようです。
手に汗を握り、固唾《かたず》を呑んでこの活劇を見物している群衆さえ、今は緊張の極になって、泣き出しそうになっている切羽《せっぱ》に、子鉄の両手が、今まで手をつける余裕さえなかった、例の笠の台だけを結んだ紐のところへかかると共に、
「恐れ入りました、味鋺の子鉄の年貢の納め時でございます、お手向いは致しませぬ、神妙にお縄を頂戴いたします」
早くも笠の台を引っぱずして、後ろに投げ捨てると共に、バッタリと大地にかしこまって、丁寧に両手をついて頭を下げたものです。
この光景が、すべての緊張しきった空気を一時に抜いてしまいました。前面に向った捕方のうち、卒倒したものがあります――観衆は暫くしてみんな一時に声をあげ、なかには声を放って泣く者さえありました。
けれども捕方は、まだ軽々しく近づくことをしませんでした。子鉄ほどの者だから、息の根を止めてかかっても油断はならない――
大地へ両手を突いて、頭を下げた子鉄は、その時に懐中へ手を入れて取り出して、二三間ばかり向うへ投げ出したのが一口《ひとふり》の短刀です。
「因果は争われないものでございます、尼にされた我が子の囮《おとり》で、子鉄がお縄を受けることになったのが運の尽きでございます、今まで子鉄のした悪事という悪事のうち、仏に仕《つか》える尼さんをいじめた、それがいちばん悪うござんした――仏罰でござんす、全く恐れ入りました」
そうして両手を突いた中へ瘢面《はんめん》をつき込んで、下を向いたきりです。
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