を得たものですから、その尼寺へ行って見たいという気がきざしていたものです――なお、その尼寺に行くということも、女性特有の嘉遯心《かとんしん》のひらめきがさせた業《わざ》ではなく、ある機会から、お銀様の悪女性をそそるところの一つの物語を聞き込んでいたからのことで、そこで、この人は名所歴訪の意味でなく、悪女性の痛快癖から、ひとつその物語のある尼寺というやつを見てやりたい――こんな気勢が、熱田の明神の社頭から、お角さんを蒔《ま》いてしまうという結果となり、ついにはとうとう先方の癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させて、お角さんだけはお先へ御免蒙って、名古屋へ乗りつけてしまうという結果にまで立至らせたのです。
 だが、どちらにしても、このいきさつ[#「いきさつ」に傍点]はもう先が見えているので、熱田へ来れば、名古屋へ来たも同様であり、名古屋へ来れば落着く宿はちゃんと打合せも準備も出来ているのだから、お角さんが癇癪を起してみたところで、ただ一足お先へというだけのもの、お銀様が迷子になってみたところで、迷子札の文字を読みきっていることはお角さん以上であり、ことに、お角さんは癇癪こそ起したけれども、お銀様に対しては一目も二目も置いてかからなければ、どうにも太刀打《たちう》ちのできない相手だということをよく心得きっているから、そこはなかなか食えないもので、癇癪を起して先発する途端に、庄公という若い衆に堪忍役を申し含めて、お銀様の行方《ゆくえ》を追わせているから、どう間違っても、この迷子はつれ戻し先のわかっている迷子です――そうしてかくあるうちに、不幸にしてそのたずぬる物語のある頼朝公の尼寺というのを探し当てる以前に、例の宮前の黒船騒ぎの波動が、お銀様をして前方へ進むことを阻《はば》みましたから、そこは気随のままに反対の方角へ足を向けて来ました。
 足の向いた方、土の調子が、この向いた足の歩み加減に叶う方向へと、そぞろ歩きをして来るうちに、この寝覚の里、すなわち七里の渡しの渡頭へ出てしまったのです。
 土地を踏む前に、その予備知識の吸収に怠《おこた》りのないお銀様が、七里の渡しの名、間遠《まどお》の故事を知らないはずはありますまい。
 表面は目的の変更から、そぞろ歩きのまぐれ当りにこの七里の渡頭へ来てしまったもののようですが、事実これは予定の行動で、問題の物語の尼寺をひやかした後は、当然ここをとぶらい来るべき段取りであったかも知れません。
 来て見れば、名所絵の示す通りの七里の渡し、寝覚の里――
 神戸《ごうど》の通りを真直ぐに左に海中へ突出した東御殿、右は奉行屋敷へ続く西御殿、石をもって掘割のように築き成した波止場伝い、その間にもや[#「もや」に傍点]っている異種異様の船々、往来《ゆきき》の荷船、物売り船――本船は遠く帆をあげてこちらへ着こうとしている、海岸波止場一帯の賑《にぎ》わい、ことに何物よりも、七里の浜そのものを表示するあの大鳥居と高燈籠。
 この大鳥居は、熱田神宮へ海からする一の鳥居であるか、或いはまた特に海を祭る神への供えか、それはお銀様にもちょっとわからないが、あの高燈籠こそは、寛永の昔|成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》が父の遺命によって建立の永代「浜の常夜燈」。滄海《そうかい》のあなたに出船入船のすべてにとって、闇夜の指針となるべき功徳《くどく》。
 この大鳥居と、あの高燈籠、海岸線を引いてこの二つを描きさえすれば、誰が見ても七里の渡船場――寝覚の里になってしまう。
 お銀様は故人の軒下にでもたたずむような、何かしら懐かしい心でその高燈籠の下に立って、渡頭と、そうして海を眺める――
 海の彼方《かなた》は伊勢の国、波の末にかすかにかかる朝熊《あさま》ヶ岳《だけ》。

         十

 東海道を上るほどの人で、「伊勢の国」に有終の関係を持たぬ者は極めて少数である。
 道中は、委細道中気分で我を忘れてふざけきっていた旅人が、七里の渡しに来て、はじめて本来のエルサレム「伊勢の国」を感得する。但しこのエルサレムは、巡礼者の心をして厳粛清冷なる神気を感ぜしむる先に、華やかにして豊かなる伊勢情調が、人を魅殺心酔せしめることを常とする。そうして七里の渡しの岸頭から、伊勢の国をながむる人の心は、間《あい》の山《やま》の賑やかな駅路と、古市《ふるいち》の明るい燈《ともし》に躍るのである。
 神を尊敬する日本人には、神を楽しむという裏面がある。清麗にして快活を好む日本人は、大神の存するところを、厳粛にして深刻なる修道の根原地としたがらないで、その祭りの庭を賑やかにし、その風情に遊興の色を加えることを忘れない。伊勢へ行くということは、日本人にとっては罪の懺悔に行くのでもない、道の修練に行くのでもない、一種の包容ゆたかなる遊楽の気分を持って行く
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