ならば、弁信も閑却されてはならないのです。北原一行の安否こころもとなしということの知らせは、弁信へも一応、報告がなければならないはずでしたが、どういうものか、この人たちのために全く忘れられていました。忘れられているほどによく眠っていたのです。あれからずっと眠り続け、最初の報告通り、三日間は恩暇で寝通すということが、誰に向っても諒解を得ているのですから、それは差支えないが、とにもかくにも、この場合の不安と憂慮とを、弁信に向っても頒《わか》たなければならないはずなのが忘れられていました。

         九

 熱田の明神の参宮表道路の方面は、あんなように大混乱でしたけれども、その裏の方、南の海へ向った方面は、打って変って静かなものです。
 それというのは、海が見とおせるからのことで、見渡す限りの海のいずれにも黒船を想わせる黒点は無く、夜も眠られないという蒸気船の影なんぞは更に見えないで、寝覚の里も、七里の渡しも、凪《な》ぎ渡った海気で漲《みなぎ》り、驚こうとしても、驚くべきまぼろしが無いのです。
 この時しも、お銀様は飄々《ひょうひょう》として寝覚の里のあたりをそぞろ歩いておりました。お高祖頭巾にすらり[#「すらり」に傍点]とした後ろ姿。悠揚として東海、東山の要路を兼ねた寝覚の里の、旅路の人の多い中を行く女一人を見て、通りすがる人がひとたびは振返らぬはありません。
 それは、お銀様の立ち姿がすぐれて美しかったからでしょう。ことにその後ろ影は、すらりとして鷹揚《おうよう》で、なかなか気品があって、物に動じない落着きもあって、こんなところをともをも連れないでそぞろ歩きするところに、田の面か松原に鶴が一羽降りて来たような風情《ふぜい》がないでもありません。
 年増の女房たちも、若い娘たちも、ひとたびは振返ってお銀様の立ち姿を見ないものはありません。見て、そうして羨望《せんぼう》の色を現わさないものはありません。
 女の美しさを知るのはやっぱり女であるように、女が心から嫉《ねた》みを感ずるのもやはり女であります。本来、女が男を嫉むということは、有り得べからざることなんですが、そういうことがあるのは、男と女との間にまた一個の女がはさまるからです。女は女をとおしてでなければ男を嫉むということはないのですけれども、女は女に対してのみは、全くの直接です。
 お銀様の歩み行く後ろ姿を見て振返る女たちの視線には、みんな多少ともに、羨望と嫉妬とを含まないのはありません。それよりもなお憎いのは、この人が、さほどの羨望と嫉妬を浴せられながら、なお冷々然として、むしろ、そういった同性たちを冷笑しつくすかのように、澄まして取合わない高慢な態度でありました。
 他より羨《うらや》まれ、或いは嫉まれた時に、幾分なりとも、得意なり、慢心なりの色があるうちはまだしお[#「しお」に傍点]らしい。羨まれ、嫉まれながら、それを冷倒するやからに至っては、全く度し難いものです。重ねて言えば、人間は縹緻《きりょう》を鼻にかけるうちは、まだ可愛らしいものだが、それを頭から抹殺してかかる奴に至っては、悪魔でも誘惑のしようがない。
 お銀様の態度がそれです。おそらくお銀様といえども、人の羨望と嫉視の的になる地位と空気とを、自分が感づかないはずはないのですが、それを刎《は》ね返して進む自分というものをも、自覚していないはずはありますまい。寝覚の里の渡頭《ととう》の高燈籠の下まで来て、そこに立ってつくづくと海を眺めたお銀様の眼には怒りがありました。
 寝覚の里は、すなわち七里の渡しの渡頭であります。七里の渡しというのは、この尾張の国の熱田から伊勢の桑名の浜まで着くところ、古《いにし》えのいわゆる「間遠《まどお》の渡し」であります。上古は畏《かしこ》くも天武天皇が大友皇子の乱を避けて東《あずま》に下り給いし時、伊勢より尾張へこの海を渡られたが、岸の遠きを思いわび給い、間遠なりと仰せられたところから、この名が起ったという。
 近世には、弥次氏と同行喜多君が、ここに火吹竹の失態を演じたという名残《なご》りもある。
 数日以前には、宇治山田の米友が、ここで足ずりをして、俊寛の故事を学んだこともあるのであります。
 今し、お銀様は鳥居前の高燈籠《たかどうろう》の下にとどまって、じっと海を遥かに、出船入船の賑わいを近く眺めて立ちつくしていました。
 お銀様としては、最初からここへ来るつもりではなかったのです――熱田の明神へ参詣して、ずんとお角を出し抜いて、ひとり境内を外《はず》れてしまったのは、例によってのやんちゃな驕慢心がさせたのみではなく、お銀様としては、お角などの予想のつかない目的を持っていたもので、実はこの熱田の宮の附近に、源頼朝の生れたところがある、そこが尼寺になっている――という知識
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