のである。そこに日本人が神を慕う特殊の心情と行動とがある。伊勢参りの憧れは、すべての日本人にとって明るい。
 けれどもお銀様は、その日本人の普通の人が持つような、軽快な気性を以て育てられてはいませんでした。今し、その憧れの伊勢の国をながめている、というよりは睨《にら》んでいるのですが、それは今にはじまったことではありません。お銀様は、いつでも物を見るということはなく、物を睨めることのほかには為し得ない人ですから、当然その眼が伊勢の国へ向いている時は、その心が伊勢の国を怒っている時でなければなりません。だが、お銀様として、何を伊勢の国に向って怒らねばならぬものがありますか。
 数日前、宇治山田の米友という代物《しろもの》が、ここと同じところにいて、出て行く船と伊勢の国をながめて衷心《ちゅうしん》から憤っていたはずですが、それには充分に憤るべき理由があり、また憤りに同情すべき充分の事情がありました。いまだ伊勢の国の土を踏んだことのないお銀様には、そういう理由も、事情も、一切無いはずです。ただ、こうして海を眺めていたいのでしょう。山国に育って、山にのみ護られていたお銀様にとっては、このたびの旅行に於て、海というものが最も驚異の対象となっていることは事実のようです。
 機会があるごとに、海を見たがりました。さればこそ古鳴海の海をもとめて、もとめあぐみ、桑田《そうでん》変ずるの現実味をしみじみと味わわされて、それでもむりやりにその望みを遂げたほどの執拗性がここへ来てもやっぱり海を見たい――単に見たいのではない、見てやりたい、どんな面《かお》をしてわたしに見《まみ》えるか見てやりたい――といった気分がさせる業で、もとより七里の渡しにも、伊勢の国にも、恩も怨みも微塵あるわけではないが、ただ海を見てやりたい――それだけの気紛れなんでしょうよ。
 幸いにして海はいくら見てもいやだとは言わない、見たければまだまだ奥があります、際限なくごらん下さい、とお銀様をさえ軽くあしらっている。山はそうではない、我が故郷の国をめぐる山々、富士を除いた山々は、みんな、こんなとぼけた面をしてわたしを見ることはない。奥白根でも、蔵王、鳳凰、地蔵岳、金峯山の山々でも、時により、ところによって、おのおの峻峭《しゅんしょう》な表情をして見せるのに比べると、海というものはさっぱり張合いがない――
 こうして、お銀様の頭が故郷の山川に向った折柄、不意に、天来の響がその頭上に下るの思いをしました。
「お嬢様、お嬢様」
 朗かな声で二声まで続いて聞えたのは、わが名を呼ぶもの。
 それは、海のあなたの伊勢の山河から来る声でもなく、後ろから我を追手の呼びかける声でもない、そうかといって西の出崎の松、東、呼続《よびつぎ》、星崎《ほしざき》の海から来る声であろうはずもありません。
 その声はまさに、うららかとも言ってよい、わが頭の青天の上から、妙楽《みょうがく》の如く落ちて来たものであることは、お銀様自身がよく心得ていました。ですから、
「なあに」
と、天を仰いでそれを受けとめなければならないほどの現実性をもって、鼓膜にこたえたものです。
「お嬢様、いったいあなたはどちらへいらっしゃる目的なんでございますか」
 その声がまた言いました。
「わたしは知らない」
 お銀様は、またしても、ついついこうあしらわねばならなくされました。
「おわかりでございますか、わたしは弁信でございますよ、わたくしの声はよくお分りになりましょうと存じますが、今、わたくしがどこにいるかということは、到底、あなたにもおわかりになりますまい」
「わたしは知らない」
 この瞬間、確かにお銀様は弁信の呼びかけた声を聞いたのです。だが、それが東西南北のいずれから呼びかけたかということは問題ではありません。お銀様は青天碧落の上を、やや昂奮の気持で眺めておりました。
 その時に、お銀様の眼の中にありありと浮び出でたのは、トボトボと有野村を立ち出でて行くところの、弁信の憐れな姿でなければなりません。
 かの如くして、我と行を共にし、縁を同じうし、ついには家を同じうし、ついには心も行動も投げ出して見せるほどの間柄になりながら、最後の対面の後、あの弁信を送り出す我が眼の中に一滴の涙もなかったことを、いまさら不思議に感じ出したものでもありますまい。
 甲州一番の自分の家を焼き亡ぼしても悔いないお銀様です。肉身を呪《のろ》い滅ぼしてかえって痛快を叫びたいお銀様が、どうして、弁信一人ぐらいが、つこうとも、離れようとも、心にかけるはずがない。
 それがこの時、弁信の姿を思い起した。誰も見送る人もなく、どこを当てということもなく、災後の有野の家を、ひとりトボトボと出た弁信の姿だけを、まざまざとお銀様は天の一方で見出したものです。
 ああ弁信! 
前へ 次へ
全109ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング