わからないって騒いでいるところが乙[#「乙」に傍点]じゃありませんか。小娘というものは、そういうものなんですね、介抱していると思っているうちに介抱されちまうんですから、変なものです。そこへ行くってえと……功を経た奴にゃかないません。早い話が……」
一方が絶対に無反抗の沈黙だから、一方も無方図《むほうず》の出鱈目《でたらめ》を並べることになる。そこに何か無形の警察があって弁士に中止を命ずるか、不文の法律があって発言を禁止させるかしない限り、こういう席では、野方図《のほうず》の限りを尽せば尽せるようなものだが、この世の中にも世の外にも、必ず無制限力を制する制限力が、眼に見えたり見えなかったりするところに存するもので、ひとりピグミー風情にだけ、こんな野方図が許されるわけのものではない。また油壺を取り上げて舌なめずりをしながら、弁信の寝顔を覗《のぞ》き込んで話題を続けようとする時、
「おい、ピグミー、ピグミー」
と、隣り座敷から不意に呼びかけたものがあったには、ピグミーもびっくり仰天して、思わず手に持てる銅壺《どうこ》を取落そうとしました。
「な、な、なんですか、そちらで拙者をお呼びになるのは、どなたでございますか」
「そこへ行くてえと……功を経た奴にゃかなわないと、お前いま言ったね、その功を経た奴というのはいったい、誰のことなんだえ、さあ、それを言ってごらん」
隣り座敷から聞えたその声は、やや年を食った女の声で、最初からピグミーを呼びかけたのが高圧的であり、二度目に言いかけたのは、まさに手づめの詰問で、その調子はもう一言いってごらん、返答によっては只は置かないよという、強い威嚇を含んで響いて来たものですから、おぞましくもピグミーが慄《ふる》え上ってしまったのは、単に不意を打たれたばかりではない、この女の声の主に対して、何か若干の弱みを感じている者でなければ、こうはならないはず。そこで、ピグミーはシドロモドロで、
「いいえ、決してあなたのことを言ったのではございません、いや、ただ世間にはそうした奴もあるという例えを引こうと思っただけで、イヤなおばさん、あなたの噂《うわさ》なんぞ言い出そうというような不了見《ふりょうけん》ではございませんでしたから、どうぞごかんべんください」
「知らないよ、お前は、あたしのことを言おうとしたにきまっている、ピグミーのくせに生意気な、はじめての人様に、わたしの棚卸しなんぞをすると承知しないよ」
「はいはい、決してあなた様の棚卸しなんぞを、どういたしまして」
「そんなら、いいからこっちへおいで」
「はい」
「こっちへおいでなさい、何も慾得を忘れて眠っている人の傍にいて、イヤがらせを言わなくてもいいじゃないか、相手が欲しければ、わたしがいくらでも相手になってあげるから、こっちへおいで」
「はい、有難うございますがね、イヤなおばさん……」
「何だい」
「あの……」
「何があの――だい。お前、いま、赤い舌を出したね、わたしに見えないと思って。そうして、イヤなおばさんじゃあ、いくら傍へ寄れと言っても、うんざりする――と口の中で言ったね、覚えておいで」
「ト、ト、とんでもない……」
「じゃ、こっちへおいで、わたしこそ、人が欲しくって弱り切っているところなんだから、ピグミーだろうが、折助だろうが、誰でも相手になってあげるよ、さあ、おいで」
「弱りましたね」
「弱ることはないよ、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]時のまずいものなしだから、いくらでもお前を可愛がってあげるから、こっちへおいで」
「イヤなおばさん、お言葉ではございますがね、そっちへあがると、わっしはおばさんに食われてしまいそうな気がして、怖くってたまりませんから……なんならこっちへおいで下さいましな、食物もございます、明りもついておりますよ、こっちで、ゆっくりお話を伺おうじゃありませんか」
「弱虫だねえ。だが、わたしゃそっちへ行けないから、お前、こっちへおいで」
「どうしてでございます、イヤなおばさん」
「だって、そっちには見ず知らずのお客様が寝ている」
「見ず知らずとおっしゃったって、ちっぽけな坊さんです、その坊さんも、死んだように寝ているんですから、差支えはございません」
「さしつかえはなかろうが、わたしは坊主は嫌いなんだよ」
「これは恐れ入りました、坊主と申しましたところで、三つ目のある入道ではなし、あなたほどの豪の者が、坊さんを怖がるとは不思議ですね」
「何だか知らないが、わたしは坊主とさつま芋は虫が好かないのさ、そればかりじゃない、いま動けないわけがあるから、ちょっとこっちへおいで……」
六
「お前がどうしても出向いてこなければ、こっちから出向いて行くよ」
「わあっ!」
ピグミーが大声あげて泣き出したに拘らず、次の間、つま
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