に退引《のっぴき》させまいとの構えです。
「いけません、今晩はお前さんの相手にはなれませんよ」
「意地の悪いことをおっしゃるものじゃありませんよ、弁信さんらしくもない」
「いいえ、わたくしは今晩は、何といっても相手になりません、しかし、お前さんが話したいという気持と、わたしを寝かすまいという圧迫に、わたしは干渉をしようとは思いませんから、話したければお前さんひとりで、そこでお話しなさい、わたしはまたひとりで、眠れるだけ眠りますから、そこはおたがいの留保として、では、わたしはこれから眠ります、お前さんは勝手に話しなと何なとなさい――さめるまで、わたしは御返事を致しません」
「これは御挨拶ですね、そう言われてみれば仕方がない、先方がこっちの自由と勝手とを尊重して下さることに対して、こちらも先方の安眠と甘睡を妨害すべき理由を見出すことができませんからね。では弁信さん、わたしはここに失礼さしていただいたままで、喋れるだけ喋らしてもらいますからね。お江戸の辻芸人には独《ひと》り角力《ずもう》というのがありましたが、わっしゃこれから一人で二人前のかけあい話[#「かけあい話」に傍点]をやりますよ。時に、ねえ、弁信さん」
「…………」
 ここに至って、もはや弁信の返事はありません。つまり相手にならないのです。ピグミーを相手にせず、さりとて、これに退却を命ずるのでもなく、彼は彼の為《な》さんとするところに任せ、我は我の為さんとする眠りに深く落ちて行きました。

         五

 それから暫くの間、この座敷がひっそりしてしまいました。
 なるほど、森閑としたこの源氏香の間には、すやすやとした弁信の軽い寝息のほかに何物もありません。やくざが居催促の形で、胡坐《あぐら》を組んで反《そ》り返っていたピグミーの姿はどこにも無い。さては、口ほどにもないピグミーの奴、弁信に相手にされないものだから、さすがにテレきって、ひとりでは持ちきれず、目に立たぬようにこっそりと、この場を退却してしまったものらしい。さりとは、いよいよ以て器量の悪いピグミー。
 さりながら、ピグミーの長所はしつっこい[#「しつっこい」に傍点]というところにある。ピグミーに向って勇断と果決と、威厳と雅量を望むことは注文が無理だけれども、小細工と、しつっこいことと、こうるさいことにかけては、けだしピグミーの独擅《どくせん》であります。
 果して、あれだけで引揚げるようなピグミーでは決してない。音も立てずに例の屏風《びょうぶ》の蔭からこっそりと再び姿を現わして、赤い舌を吐き、にったりと笑った、それがすなわち今のしつっこい業物です。にったりと笑いながら、以前のように、むんずと弁信の枕許に於て、ちっぽけな膝を悪態に気取って組みながら、同時に左手の方に置き換えたものは、銅の行燈《あんどん》の油壺です。それと同時に一方、右の手を懐中に差し込んだと見る間に取り出したのは、一本の蝋燭《ろうそく》――
 ははあ、さては今ちょっと外出と見えたのは、部屋部屋を通ってこの蝋燭を掻《か》き集めんとの目当て。
「とかく、話敵《はなしがたき》の席にも、やはり兵糧というものの用意が要りますよ、腹が減ってはお相手もなりかねますから、この通り食糧を掻き集めて参りました、これさえありゃあ――」
と言ってピグミーは、一本の蝋燭をカリカリと噛みはじめ、そうして一方には、油壺の油を注口からガブガブと飲み、
「ピグミーだって、あなた、時々は油っこいものを食べないと、身体がバサバサになって骨ばなれがしてしまいます。ああ、結構結構、こうして養いをしておきさえすれば、矢でも鉄砲でも――松倉郷の名刀でも、乃至《ないし》弁信さんの、のべつ幕なしの舌鋒でも、何でも持っていらっしゃい、さあ、いらっしゃい」
 酔っぱらいが管を巻くように、このピグミーは油に酔っぱらったらしい。
 こうして挑《いど》みかけたけれども、弁信のスヤスヤとした寝息は更に変りません。
「よろしい――弁信さんは弁信さんとして、存分にお眠りなさい、わっしはわっしとして、勝手に熱を吹いてよろしいというお約束でしたな。では、第一伺いますがね、弁信さん、お前さんはあのお雪ちゃんという子をどう思召《おぼしめ》しますね、それからまたお雪ちゃんが侍《かしず》いていたあの気持の悪い盲目の剣客――あの人をいったい何だと思います」
「…………」
「お雪ちゃんという子は、ありゃあれで存外の食わせものですぜ」
「…………」
「それから、あの竜之助って奴、あれはまあ、一口にいえば色魔なんだね」
「…………」
「わっしの見るところでは、お雪ちゃんの妊娠は事実だと思うんですよ、あの子はまさに孕《はら》んでるんでさあね」
「…………」
「それがお前さん、いつ孕ませられたか、どうして身持になったか、御当人が
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