いたのは。その竹のうちにひそんでいるのは何者じゃ」
 鋭い声でたしなめたが、やっぱり返事はない、内からも、外からも……
 そこで新お代官が焦《じ》れ出しました。
 苟《いやし》くもわが城郭のうちを外より来っておかす者がある、それが、他人ならぬ主人自身の眼に触れた以上、そのままにして、今晩もまた取逃しました――では、代官の権威面目がいずれにある。
 そういきり立った時に、急に、腰のさびしさを感じました。前に言う通り武装こそしているが、腰の物は一切忘れていた、刀は持たないまでも、脇差も抛《ほう》りっぱなしで出て来た――あわただしく両手を振ってみたが、得物《えもの》とてはなんにもない、思わずあたりを振向いたけれども、暗い中に転がっている物とては、芝生の上に小石一つも目に入らない。
「お蘭――刀を出せ、いや、鉄砲を、いや、用意のあの短筒《たんづつ》を持参いたせ――」
 今までの、内に向いての言葉は拙い駄洒落《だじゃれ》であり、歎願であったけれども、この時のは真剣なる命令でありました。
 だが、歎願も歎願ととられない限り、命令も命令として徹底しないのは是非もない。静御前《しずかごぜん》でもあろうものなら、言われないさきに、逸早く用意の武器を持ち出して供給するのですが、お蘭さんは、まだまだ旦那を焦らし足りない、もう少し見ていて、いよいよ降参して来た時に、こちらの見識を見せてやろうというつもりでもあろう……一向に手答えのないこと以前の如し。
 そこで、新お代官はついに両の拳を握りました。この場合、拳を握るよりほかに戦闘準備の手はなかったものでしょう。でも、格闘の以前に威嚇をもってするが順序だということを忘れなかったと見え、
「怪しい奴、逃げ隠れたとて、この代官の眼は節穴ではないぞ、闇をも見抜く力があるぞ、たった今、それへ忍んで失《う》せたは何者じゃ、これへ出え、これへ出え」
 この威嚇に対しても手答えのないこと、内外共に同じ。
 その時に新お代官は、一種異常なる恐怖を感じてきました。
 そうして、この恐怖のうちに、自分が赤手空拳で立っているということを痛感しました。
 いかに、この場合、赤手空拳が危険であるかということを、ヒタヒタと感じました。今日、三福寺の上野で調練の時、農兵の中に盗賊がいたのを見つけて、それを広場に立たせて、農兵どもに一斉射撃をさせて帰って来たことを、この新お代官は妥当にして且つ痛快な処罰法だと自分ながら感心して帰って来たが、今や、自分がちょうどその射たれた農兵と同じ立場に置かれてあるような危険を、どこからともなくひたひたと感ぜしめられてしまいました。
 武器さえあれば、自分とても腕に覚えがないではない、飛びかかって手討にもしてくれるのだが、先方に当りのつかない敵に向って、空手で飛びかかるようなことは、こちらに相応の心得があるだけに、決してできるものではない。さりとて、ここで弱味を見せて、自分が引返しでもして、先方が得たり賢しと逆襲でもして来ようものなら、いったいどうするのだ、白昼、平野の中で、鉄砲玉の一斉射撃の筒を向けられたのと同じ立場ではないか。
 酔いはすっかり冷めたし、新お代官の特別製の太いだんぶくろ[#「だんぶくろ」に傍点]が、こんにゃくのように慄《ふる》え出しました。
 この場合、最も応急の策としては、声をあげて助けを呼ぶのほかはないのだが、その声というものは、いくら張り上げても、この際、茶化されて、いよいよ相手の意地悪い沈黙を要求するよりほかの効果のないことになっている。ならば、もっといっそう大声をあげて、ここの屋敷近くには名にし負う宇津木兵馬もいることだし、黒崎その他の手だれもいることだし、なお本陣の方には幾多の猛者《もさ》が養うてあるのだから、出合え、出合えと呼びさえすれば、お代官自身が手を下すまでもないはずになっているのに――その声が出ない。
「う、う、う」
とお代官は、連続的に一種異様なる唸《うな》り声を立てはじめたものです。
 内なるお蘭さんは、この連続的な一種異様の唸りを聞くと共に、腹をかかえて笑いこけるのを我慢がしきれなかったに相違ない、大将とうとう泡を吹いた。泡を吹いたには違いないが、まだ本式の降参を申し入れたのではない。おれが悪かった、済まなかった、今後は慎しむから、今晩のところは、ひとつかんべんしてやって下さいという口上が出てこそはじめて、開門を差許すべきもので、まだこの辺の程度で折れては、今後の見せしめのためにも悪い……と、お蘭はこんなに考えているに相違ない。
「う、う、う、う」
 連続的の泡吹きが、なおつづく。
 お蘭さんはいよいよお茶を沸かしきれないのを、じっと我慢している。
「う、う、う、う」
 もう一息の辛抱だ、もう一泡お吹きなさい、そうすれば助けて上げます……
「助けてくれ―
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