―」
おやおや、助けてくれ! は少し大仰だ、だが、まだいけない、わしが悪かったから、あやまりますという口上が出ない限りは……
しかし、この「助けてくれ!」の絶叫は、かなりにすさまじく、そうして真剣味を以て響いたものでありました。
この声は、ここのお蘭さんのお茶沸かしの燃料を加えただけではなく、当然、道場にいた宇津木兵馬あたりの耳にも入らなければならないほどの絶叫でしたが、道場の方からも、何の挨拶さえもなかったのは、前同様の経路で、ここ暫くは知って知らぬ顔、聞いて聞かぬふりをして、気流をそらすのが最上の場合と兵馬もさとっているのでしょう。そこで兵馬も、どうしても、この一場の酔興が幕を下ろすまでは、窮鳥の懐ろに入ったと同様な、まだ知らないこの若い娘を擁して、道場の衝立《ついたて》の後ろに息を殺しているのが、自他を活かす所以《ゆえん》だと考えたのでしょう。
そこで、いずれからも反応もなく、喝采《かっさい》もないのに、ここ、芝生の上の新お代官の独《ひと》り茶番は、極度の昂奮をもって続演せられているというわけです。
「あ、わ、わ、あ、わ、わ」
う、う、うという、今まで連続的の母音が、今度は、あ、わ、わ、わという子音にかわっただけ、それだけ緊張がゆるんだとも聞えるし、気力が尽きたのだと想われないではありません。
どうしたものか、その時になって、やにわに拳を振《ふる》って、その夫婦立《めおとだ》っている孟宗の蔭へ、シャニムニ武者振りついて行きました。武者振りついて行ったというよりも、孟宗の蔭に物があって、緊張がゆるみ力が尽きた呼吸を見はからって、このお代官をスーッと吸い寄せてしまったと見るのが本当でしょう。
「だあ――」
お芝居も、だあ――まで来ればおしまいです。
夫婦立ちの孟宗竹の蔭から、白刃が突きあがるように飛び出して、飛びかかって来た新お代官の、胸から咽喉《のど》へなぞえに突き上ったかと見ると、それがうしろへ閃《ひらめ》いて、返す刀に真黒い大玉が一つ、例の洲浜形にこしらえた小砂利の上へカッ飛んだものは、嘘も隠しもなく、そのお茶番を首尾よく舞い済ました新お代官の生首でありました。
そこで、すべての空気がすっかり流れ去ってしまい、夫婦竹の孟宗の後ろには覆面の物影が、竹と直立を争うほどすんなりと立ち尽しているのを見れば見られるばかりです。
お茶番にしても、あんまり身が入り過ぎている。こちらも少々、からかい方の薬が強過ぎたと、折れて出たのが内にいたお蘭の方です。
「御前、いいかげんにあそばせよ」
と言って、ここにはじめて内からカラリと戸をあけて、同時に、しどけない自分の半身をもこちらへ見せたものですが、もうお茶番はすっかり済みました。
第一、登場役者がそこにいませんもの……お蘭の方も、少々こちらの薬が効き過ぎたことを多少気の毒の感に打たれた時……すーっと自分の身が引き寄せられ、夫婦竹の中に吸いこまれたことを感じ、
「あれ――そんなお手荒く……」
と言ってみたものですが、その声がフッとかき消されてしまって、その身は獅豹《しひょう》に捕えられた斑馬《しまうま》のように、ずるずると芝生の上を引きずられて行くのを見ます。身体《からだ》が引きずられて行くから、帯も、下締のようなものも、一切がずるずると引きずられて、そうして植込の茂みの方へ消えて行ってしまうのです。
それっきりで、何とも叫びを立てないから、静かなことは一層静かになってしまいました。
三十六
これより先、代官屋敷からは程遠からぬ三本松の辻に辻待ちをしていた二梃の駕籠《かご》、都合四人の雲助が、客を待ちあぐみながら、こんな話をしていました。
「今日、三福寺の上野青ヶ原へ農兵の調練を見に行ったかよ。行かなかった、行かなくって仕合せだったな」
「それはまたどうして」
「どうしてったって、調練は調練でいいが、見たくもねえ景物を見せられちゃって、胸が悪くてたまらねえ」
「手前《てめえ》らしくもねえ、鉄砲の音で腰でも抜かしたか」
「いいにゃ、そんなことじゃねえ」
「どうした」
「どうしたったって、鉄砲で人間がやられたのを、今日という今日、眼の前で見せられて、おりゃあ夕飯が食えなかったよ」
「そうか、何だってまた、人間が鉄砲で打たれちまったんだ」
「それがつまりお仕置よ。何か手癖が悪くて仲間の物を盗《と》った奴があって、それが見つかったものだ。ふだんならば、何とかごまかしが利《き》いたかも知れねえが、お代官がお調べの調練だ、なまぬるいことじゃ示しにならねえというようなわけで、そいつを原っぱの真中へ立たせて置いて、その組の農兵が三十人、銃先《つつさき》を揃えて、打ったというわけなんだ」
「そいつは事だ、うむ、泥棒こそしたが、もとはといえばみんな知った顔で、近
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