蘭さんはおらんかね、ちょっとここをあけて頂戴」
 人の好いのを通り越して、全くだらしのない呼び声です。
 でも、中ではこのだらしのない呼び声が聞えていなければならないのに、いっこう返事がありません。返事がないものですから、
「お蘭さん、お目醒《めざ》めでないかい、おらがお蘭さんはおらんのかい」
 何といういやらしい猫撫声だ。
 これではまるで、お人好しの宿六が、嬶天下《かかあでんか》の御機嫌をとりに来たようなものではないか、郡民畏怖の的である新お代官の権威のために取らない。
 それにも拘らず、中ではいっこう返事がない。返事がないということは、中にたずねる人が存在していないということではなく、たずねる人がお冠《かんむり》を曲げてお拗《す》ねあそばしているから、それであらたかな御返しがないのだ――ということを誰も言っては聞かせないが、本人の良心に充分覚えがあるらしい。そこで御機嫌斜めな内《うち》つ方《かた》の御思惑《おんおもわく》を察してみると、お代官も権柄《けんぺい》ずくではどうにもならないから、下手《したで》に出てその雲行きの和《やわ》らぎを待つよりほかはないとあきらめたものらしい。
 甚《はなは》だ器量の悪い締出しを食っている新お代官は、お蘭さんはおらんかい程度の洒落《しゃれ》では到底、内なる人の角を折ることはできないと観念したものか、やはり、こういう時は強《し》いて御機嫌に逆らうよりは、時間に解決させるのがいちばん安全にして賢明なる手段だと、そこは政治家だけに、転換の妙を悟ったものか、いいかげんにしてまたその開かざる戸の外を立去ってしまいました。
 立去ったとはいえ、自分の本宅へ帰って眠るというわけではないにきまっている。よし中でお返事がないとしてみたところで、このお返事のなかったことを理由として、自分が安眠の床に帰ってでもしまおうものなら、明日が大変である。それほど薄情なお方とは思わなかった、お暇を下さい、わたしよりもっと若いのをたんと引入れて可愛がりなさいだのなんだのと、矢つぎ早に射かけられるのが、とうてい受けきれたものでない――だから時間に解決させるといったところで、明朝までというような悠長な時間を意味するのでなく、もう一ぺん通り庭を廻って来て、またここに立とうというだけの時間であること、疑いもありません。
 こうして、新お代官はまたお庭めぐりをはじめだしました。でも性癖はやむを得ないもので、絶えずニコニコと嬉しそうに、クドクドととめどもないことを口走り、そうして植込から、泉水の岸から、藤棚の下、燈籠《とうろう》のまわり……をグルグルと廻っています。
 その新お代官の服装を見ると、これはまた思いきやでしょう。今晩の婦人たちは、女のくせにたしなみがない、みんなだらしのない寝まき姿で、飛んだりはねたりしているこの深夜に、さすがこの新お代官だけは、きっちりと武装をしているのであります。武装といっても、まさか鎧兜をつけているわけではないが、近頃はやるダンブクロというのを穿《は》いて、陣羽織をつけていることだけは確かです。
 してみれば、この新お代官、昼のうち農兵の調練を検閲に行ったということだから、あのまま深夜のお帰りで、まだ衣帯を解く遑《いとま》もあらせられず、家庭に於てまたこの調練だ――ということも、ほぼ想像がつくのであります。
 果して庭を、どうどうめぐりすること三べん、またも以前の戸口まで舞い戻って来て、
「お蘭さん――」
 だが、今度は意外な手答えのあるのに驚かされてしまいました。
「誰だい」
と言って戸の隙間からのぞき込もうとした新お代官は、それとは別の方面で意外な物の気《け》のするのを感じました。
 それは、その辺一帯の庭は芝生になって、そのさきは小砂利を洲浜形《すはまがた》とでもいったように敷いてあったのだが、その芝生の上に、夫婦《めおと》になって二本高く茂っている孟宗竹の下で、物影の動くのを認めたからです。
 甘いといったって、だらしがないといったって、そこは、新お代官をつとめるほどの身だから、甘い人には甘かろうし、だらしない場合にはだらしないだろうが、それが決して人格の全部ではない。辛《から》い時には辛酷以上に辛い、敏《さと》い時には狡猾《こうかつ》以上に敏いところはなければならないから、この物影がグッとこたえたものと見なければなりません。
「誰だ――」
 無論、返事はないのです。返事のないことがいよいよ許せないのは、内と外とは全く違ったもので、内の奴は返事のないほどこちらが下手《したで》に痛み入るほかはないが、この外の奴の返事のないのは――これは全くようしゃがならない、時節柄ではあり、現に先日の夜も、こういう奴があってこの屋敷を騒がし、宿直の宇津木と黒崎とに腕をさすらせたものである。
「誰だ、今そこへ動
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