ながら、ろれつの廻らないことを言っている胡見沢は、どうも相手がはっきりこの中へ逃げ込んだものか、そうでないか、充分に観念があってするのではないらしい。
娘の子が逃げ込んで来て、一生懸命に抑えているのは、廊下からの一方に、それとは全く違った大戸の方でしきりに胡見沢は騒いでいるのだから、女の子にとっては、努力甲斐のないことがかえって幸いでもある――
それでも、その戸口を抑えた手はちっとも放さないで、ようやくこちらを振返り見るの余裕だけを得ました。
そうすると、ほとんど有るか無きかの朧《おぼ》ろな神前の燈明の光にかすけく、そこに自分よりも最初に立っている一個の人影を認めました。しかもその人影は、手に白刃《はくじん》を提げて立っていることに渾身《こんしん》から驚いて、わななかずにはおられません。
娘の子としては、それが追いかけて来た人とは別人であることは一見して分ったけれども、すでに人が内部に存在している以上は、前狼後虎というものである。もう絶体絶命で、遁《のが》れようとしてものがれられるものではない――
南無阿弥陀仏、女の子は目をつぶって、その抑えた戸口にしがみついてしまいました。
ところが、内には白刃を提げて立っているその人は、透かさず自分に向って飛びかかって来るでもなく、おどかしつけるでもなく、何の音沙汰もないのに、一方、その大戸の方の戸をしきりにガタつかせていた追手の胡見沢は、それもあぐみ果ててしまったと見え、
「あかないな、あかなければあかないでよろしいぞ、離れへ逃げたな、たれもおらん、おらんと洒落《しゃれ》のめして、お蘭のゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]の下へ逃げ込んだな、うまくやった、お蘭がそこにおらんという洒落は苦しいぞ、だが、あっちは鬼門じゃてな――お蘭め、さだめて角を生やしているこっちゃろう、こいつは一番|兜《かぶと》を脱がにゃなるまい、明朝になってでは後手に廻るおそれがあるから、お蘭がところへひとつ、このままおわびと出かけるかな」
こう言って、胡見沢はまたカランコロンと庭下駄の乱調子で庭をくぐり歩いて行くのは、別邸のお蘭の部屋を目指して行くものと見える。
ろれつの廻らない出鱈目《でたらめ》のうちにも、ほぼ本性は見える。やっぱりこの娘を口説《くど》き損ねて逃げられ、逃げた先はこの道場の中と思ったがそうでなく、別邸のお蘭の部屋へ逃げ込んだのだ、あそこへ逃げ込まれては実は少し困るのだ。それは、明日になってお部屋様の角が怖いから、今晩のうちに先手を打って、御機嫌をとっておかねばならぬという用心であることは明らかで、存外この男も、お蘭に対して弱味を抑えられていることが見えないではない。
ほどなく、戸口に立ちすくんでしまった娘の肩へ手をかけた兵馬、
「心配なさるな、主人は行ってしまいましたよ」
その声が存外若くして、そうしてやさしいのに、立ちすくんだ女の子は息を吹き返さないということはありません。
振返って見ると、最初の印象では雲を突くばかりの大男が手に白刃を提げて迫っていると見たのが、こうして見ると、自分とはいくらも違わないところの、まだ前髪立ちの若い侍で、抜き放されていたと思った白刃は、いつしか鞘《さや》に納められて、右の手に軽く提げ、その左の手で、和《やわ》らかに自分の肩を叩いて言葉をかけたというよりは、慰めを与えられたといってよい程に、物静かなあしらいですから、娘の子は全く生き返った思いでこちらを向いてしまいました。
前にいう通り、神前の燈《あかり》が朧《おぼ》ろで、はっきりとはわからないのですが、その輪郭と言い、その物ごしと言い、いま受けた印象をいよいよ鮮かにするのみで、微塵も、敵意と危険とを感ぜしめられないものですから、ホッと息をついて、
「どうも、とんだ失礼をいたしてしまいました」
こうなってみると、自分の寝まき姿が恥かしい。
だが、やっぱり神前の薄明りが幸いして、取乱した女の姿を、そう露骨に見せるということはありませんでした。
「まあ、こちらへいらっしゃい、まだ、ここを出てはいけません――もう少しここに忍んでいらっしゃい」
この若い、おだやかな、敵意と危険とを微塵も感ぜしめない人は、徹底的に念の入った親切と用心で、静かに、道場の虎を描いた衝立《ついたて》の方に娘を誘《いざな》いました。
三十五
こうして道場の中はひっそりしているけれども、中庭を歩いて行く胡見沢は、いよいよ陽気になって、何かクドクドと口走りながら、庭をぐるぐる廻っているところを見ると、この男は酔うとむやみに陽気になり、御機嫌がよくなり、人が好くなってしまう点は、神尾主膳あたりとは全く酒癖を異にしているらしい。
やや暫くして、例のお部屋様の戸の外に立ってことことと叩き、
「お蘭さん、お蘭さん、お
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