にも、浅公というのが生命《いのち》を吸い取られるほど、いいところがあるものか知ら……ねえ、その辺の正直なところを聞かして頂戴よ――」
 兵馬は呆れ果てて、この厚顔無恥なる女の底の知れない図々しい面《かお》を、ウンと睨《にら》みつけました。
 神尾主膳の愛妾であったお絹という女も、かなりの淫婦には相違なかったが、こうまで図々しく、肉迫的ではなかった。
 ことにこうまで露骨に出ながら、火鉢の傍に立膝の形で、股火にでもあたっているような、だらしない形――女というものはこうまで図々しくなれるものかと兵馬は憤然として、
「よろしい、あなたがお引取りなさらなければ、拙者の方で、この場を立退きます」
と言って、兵馬は刀を提げたまま、ついと立って、一方口から流れるように屏風の外へ、早くも障子をあけて廊下へ飛び出してしまいました。
 この早業においては、さすがの淫婦も如何《いかん》ともすることができないで、
「何という無愛想なお方……」
 所在なくこう言って、兵馬の起きぬけの夜具蒲団をテレ隠しにちょっとつくろい、自分も続いて廊下へ出てみましたけれども、その時はもはや、兵馬の影も形も見えません。

         三十四

 寝間を飛び出した宇津木兵馬は、そのまま庭を越えて、道場へ入って神前へ燈明《とうみょう》をかかげ、道場備附けの袴《はかま》をはいて、居合を三本抜きました。
 ここで兵馬は、心気が頓《とみ》に爽やかになり、今までの圧迫が払われて、わが心の邪道を断つには剣を揮《ふる》うに越したことはないと、いまさらに喜びを感じていると――
 一方の口、すなわち本邸から続いたところの入口が、スーッと外から押し開かれる。
 執拗千万な推参者、ここまで淫魔めがあとを追うて来おったか! 兵馬は居合腰に構えたまま、心の中に充分の怒気を含んでおりますと、戸口をスーッとあけて中へ入るとまた、つとめて音のしないようにスーッと締めてしまって、こっちを振向いたのは、同じような寝まき姿であるけれども、物そのものは全く違っている。
 すなわち予期していたものの侵入者は、先刻のあのむんむといきれるような肉の塊りであったにも拘らず、ここへ姿を現わしたのは、まだ妙齢の初々《ういうい》しい娘の子であったものですから、兵馬は、怒気も悪気も消えて、今晩はまあどうして、こうも女の戸惑いをする晩だ! と、全く呆《あき》れてしまいました。
 その時にまた外の庭で、俄《にわ》かに荒らかな下駄の音がして、濁声《だみごえ》が高く起ります。
「これさ、悪くとっては困るよ、そうやみくもに逃げ出さんでもいい、じっとしておれば為めにならぬようにはせぬものを、そうして一途《いちず》に走り出しては、人前もあるぞ、こちの面をつぶすなよ」
 その濁声は、充分の酒気を帯びているこの邸の主人、すなわち新お代官の胡見沢《くるみざわ》であることは申すまでもない。
 そこで、兵馬にもいちいち合点《がてん》がゆく。あんまり珍しいことではない、先刻もお蘭が言っていた、どこぞで女狩りをして来たその獲物だ、本来、爪にかけた上は退引《のっぴき》はさせないことになっているのが、今晩は少し手違いで、相手に甚だしい拒絶を食って逃げられたのだ、それをまた新お代官が、酔っぱらった足で、大人気なくも追いかけて来たのだ。兵馬は、それが忽《たちま》ち分ってみると、苦々しさがこみ上げて来たが、飛び込んで来た娘は一生懸命で、その戸口をしっかりと内から抑えたままです。つまり、この女の子は、咄嗟《とっさ》の間にはここの枢《くるる》のかげんも知らないものだから、必死にここを抑え、この垣一重の内へは敵を入れまいと努力していることは明らかです。
 そのくらいですから、こちらに兵馬が控えていることには、全く気がついていないようです。
 ところが、果して庭下駄の音はカランコロンとこちらへ廻って来る。濁声はろれつの廻らないほどになり、
「おいおい、そこは道場じゃないか、そんなところには誰もいやせんぞ、夜分は誰もおりゃせん……そこには誰もおらん、いや、こちらにも誰もおらん、おらん、お蘭――」
 かなり酩酊していることは、そのろれつのまわらない言いぶりだけでなく、駒下駄に響くカランコロンの乱調子でもよくわかります。
 しかし、その酔眼でも、この道場近くに相手が逃げ込んだということだけは、どうやら見当がついたものと見えて、ようやく道場へ近づいて来て、その表の大戸の方をしきりに押してみました。
「あきはせん、夜分は稽古なしじゃ、誰もおらんのだ、こんなところへ逃げてはいかん、逃げるに致せ、もっと穏かなところへ逃げるがよい、錠が下りている、あきはせんというのに、おい、あけないか、外からは錠がなくてはあかないが、なかから外《はず》せ、あけないか」
 しきりに大戸をがたがたさせ
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