たものです。
「宇津木さん」
 ほんとうに魅惑的なささやき。
 中では返事がない。
「兵馬さん」
 甘ったるい、なまめいた小声。
 でも返事がない。
「入ってもよくって?」
 コトコトと二つばかり、障子を極めて軽やかに叩きました。
 でもやっぱり手答えがない。
「入りますよ」
 障子をスラリと細目にあけて、まだ侵入はしないで中をそっと覗《のぞ》き込んだものです。
 返事はないけれども、中に人のいる証拠には、有明の行燈《あんどん》が細目に点《つ》いている。
 が、その行燈の麓は屏風で囲まれているから、細目にあけて見ただけでは、中の様子はいっこう知れようはずがない。
 そこで、今度は軽く廊下で足踏みを二つ三つしてみせて、
「今晩は……」
 それで、ようやく気がついたのか、中では寝返りをするような蒲団《ふとん》の音。もうたまらず、
「お目ざめ……」
 そこでお蘭さんがずっと座敷へ入りこんでしまって、同時に手を後ろへ廻してわれと入口の障子を閉してしまいました。
 そうして、さやさやと衣裳を引きずりながら、立て廻した屏風を廻り込んで、
「御免下さいまし」
 屏風をめぐって見ると、果してそこに宇津木兵馬がいました。
 この間の晩、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百はここでとんでもない人違いをして大失策《おおしくじり》をやらかしたが、今晩のこの場は全く人違いではありません。まさに訪ねようと求めて来た人が、註文通りそこにおり、待つ方の人も、声によって予定通りの人柄がそこに現われたのですから、これからの行動も、註文通りにはまって行かねばならぬ筋合いになりました。
 しかし、ここまで来たお蘭さんが、急にテレ切って立場を失った様子は、笑止千万というよりほかはありません。
 宇津木兵馬が生真面目《きまじめ》にキチンと蒲団の上に座を正し、一刀を膝へ引寄せて待構えている形を見て、飛びつくことも、飛びのくこともできなかったからです。
 兵馬の姿勢は整然たるものでした。もし、もう少し時間の余裕があったら、袴を着けていたかも知れません。
「お帰りなさい、一刻お帰りが遅ければ、取返しのならぬ疑いを受けてしまいます」
「いいえ、大丈夫」
と、お蘭さんはすましたものです。
「いけません、早くお引取り下さい、お引取り下さらなければ、こちらにも了見《りょうけん》がございますぞ」
「そんなに生一本におっしゃるものじゃございませんよ、もし、わたしが帰らないと言えば、あなたはどうします」
「お帰り下さらねば、声をあげて人を呼びます、御主人に訴えます」
「それは駄目です、こうして私がここまで来ている以上は、人を呼べば、わたしよりもあなたの方が困りましょう、それに、今晩はたれもこっちの別邸にはいやしませんよ」
 兵馬は憮然《ぶぜん》として、この肉感的の女のおしの強いのに驚き、今まで出会ったもののうちに、こうまで図々しいのは初めてだと、呆《あき》れないわけにはゆきません。
 その間に、もう女はするすると入って来て、火鉢の向う側へだらしなく、立膝式に座を占めてしまいました。
「今晩も、明日の晩も、コレはやって来ませんよ」
といって、図々しい女は、右の手の親指を立てて兵馬に見せました。
 親指が来ようと来まいと、それは兵馬の知ったことではない。
「ねえ、宇津木様、ウチの親玉の女狩りにもたいてい呆《あき》れるじゃありませんか、きのう、市場でもってちょっと渋皮のむけた木地師の娘かなにかを見初《みそ》めてしまったんですとさ、そうして、草の根を分けて、やっとその子を掘り出してからというものは、今晩から母屋の方で一生懸命、口説落しにかかっているそうですよ。ですから、こちらなんぞは当分の間、御用なしさ。見限られたもんですね」
 しゃあしゃあとしてお蘭は、こんなことを兵馬に言いかけました。
「ねえ、兵馬さん、年をとると若いのがよくなるものと見えますね、いい年をしてウチの親玉なんぞは、後家たらし、女房たらしも飽きて、これからは若いところに当りをつけるんですとさ。ところで、若い方の心持はどんなものでしょう、大年増になってから若い男を好くようになるものかしら。昨日もこの町の穀屋のイヤなおばさんという人の噂《うわさ》が出ましてね、わたしはいやになっちまいましたね、後家さんになってから、家に置いた若いのをみんな撫斬りですってね。女もやっぱり年をとると、若い男を薬喰いにしたくなるものか知ら。してみると若い男たちは、また若い同士では食い足りないから、年上の水気たっぷりなのかなんかと、可愛がったり、可愛がられたりしてみたくなるものか知ら。宇津木様、あなたなんぞはどうですか、偽りのないところ、かけねのないところをお聞かせ下さいましな。若い者は若い者同士がいいか、それとも年増――お婆さん、イヤなおばさんみたようなもの
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