とはいえ、これは臨時取立ての非常見廻りだ。警戒に歩いているのではない、おつとめに歩いているのだから、そんなに怖がることはない、縄をひかえて物蔭に立寄る間に、やり過すことは水を掻《か》くようなものである。
 糸蝋のようなお先供はなんにも言わない、御用提灯が目の前を過ぎても、それを呼びとめて我が身の危急を訴えることさえが、ようできない。本来を言えば、縄はなくともよかったので、この若いのは、行くべきところまで行きつかしめられるまでは、この怪物の身辺から離れることは、ゆるされないように出来ている。
 御用提灯をやり過すと、糸蝋のフラフラ歩み行くのは宮川川原を下手に下るので、下手といっても下流のことではなく、川としては多分上流へ向って行くのですが、飛騨の高山の町としては、ようやく目ぬきの方へと進んで行くのですが、まもなく左は今や焼野原のあとが、板がこいと、建築と、地形《じぎょう》とのやりっぱなしで荒《すさ》みきっている。
 お先供はどこまでも、宮川べりをのぼりつくすかと見れば、国分寺通りの四角《よつかど》へ来て、火の番の拍子木を聞くと急に右へ折れて花岡の方へと真向きに行く――ここをふらっと行き尽せば灘田圃《なだたんぼ》だ。
 だが、なにがなんでも灘田圃へ連れて行って、この若者を生埋めにするつもりでもあるまい。そうかといって、半ば失神のこの若い者が、絶望のあまり灘田圃へ身を投げに迷い込むとも思われない。
 その時分、灘田圃三千石の夜の色がいっそう濃くなって、国分寺|伽藍《がらん》の甍《いらか》も、大名田、花里の村々もすっかり闇に包まれてしまい、二人の姿も、もう闇のうちには認めることができなくなりました。
「道を間違いました」
 やっと、若いものの声が闇の中から聞えた、ところは辻ヶ森。
 それからまたややしばし、郡上街道《ぐじょうかいどう》の真只中にその姿を見せたと思うまもなく、三本松の夜明しのあぶれ駕籠屋《かごや》の小屋へ、外から声をかけた者がある。
「これこれ駕籠屋」
「はいはい」
「代官屋敷の者だがな、これから一時《いっとき》ばかりたってでよろしい、二梃の早駕籠を東川の辻に待たして置いてくれ」
「はい畏《かしこ》まりました、畏まりました」
 外で呼びかけたものは内の者の面《かお》をも見ない、内で答えたものは、外の何者かを考えないが、代官屋敷御用の声に権威があって、仰せを畏んで、眠い眼をこすりつつ起き上ったあぶれ駕籠屋の若い者。

         三十三

 それから、いくばくもなく、代官屋敷の門前の松の木に引据えられて、縛りつけられたところの貸本屋の若者を見ました。
 手は後ろへあのままで、余れる縄でもってグルグル巻きに松の幹へ結び捨てられているのだが、口には別段に轡《くつわ》をはめられているわけでもないのに、眼はどろりとして、口は唖《おし》の如く、助けを呼ぶの気力さえないようです。
 この分では、夜が明けきって、誰ぞ通りかかりの者の助けを待つことのほか、動きが取れそうもありません。ひょっとすると、舌でも噛《か》み切って事切れているのではないかとも疑われるが、そうでない証拠には、どろりとあいた眼が時々は動いているから、生きていることだけは確かだが、ただこうして夜明けまで置けば凍え死んでしまいはせぬかとのおそれがあるばかりです。
 表に斯様《かよう》な変則門番の出来たことを知るや知らずや、広い屋敷の中の別邸のお部屋を、しどけない寝巻姿で、そうっと抜け出した潰《つぶ》し島田に赤い手がら、こってりしたあだものの粋づくり、どう見てもお屋敷風ではない、がこれは昼の時の姿とは打って変ったお蘭の方の閨《ねや》の装いでした。
 お手水《ちょうず》に行くつもりだろうが、途中で戸惑いをして、お手水場とは全く違った方向の廊下を忍びやかに歩いて行くのは、おかしいことです。寝ぼけて戸惑いするほどの年でもなし、実のところ、お蘭さんは手水に行くふりをして、全くはそうではないのです。これはあけすけに言ってしまった方がわかり易《やす》い、お蘭さんはこうして、客分になっている宇津木兵馬を口説《くど》きに行くのです。口説きに行くというのが穏かでなければ、からかいに行くとでも言いましょう。
 お蘭さんが兵馬に気のあるのは昨日や今日ではない。もっと突きつめて言えば、淫婦というものが持っている先天の血潮が、眼の前に写る年頃のものを、すべて只では置かないという本能がさせるのでしょう。時にここのお代官殿を中に、今の屋敷の近頃の空気そのものが、またお蘭さんの行動に油を注ぐように出来ている。
 案の定――兵馬の客となっている部屋の外、それは先日の晩、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が立ち迷ったと同じところ、そこまで来てお蘭の方は、障子の桟へ手をかけながら、そっと内の寝息をうかがっ
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