うさ》に投げ込まれてしまったのです。
 甲州の躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷で、ほぼこれと同様な不幸な目に遭《あ》わされた一青年を見たことがありました。その時は、もっと念入りに虐待されて、戸棚ではない長持の中に窮命をさせられていたところの、幸内という者の運命を見ましたけれど、今は犠牲者の取扱いに於て、それよりも無雑作であるし、第一、躑躅ヶ崎の時はあらかじめ別の人があって、企《たくら》んで長持へ入れて置いたものを、偶然にもこれと同一の人間が監視に当っていたようなものでしたが、今日のは、犠牲をこしらえた者も、それを守る者も同一人で、かくして狼が羊を取ってくわえて来たように、戸棚の中に政公を投げ込んだ竜之助は、最初の通りその前の夜具の中に身をうずめて枕を高く寝込んでしまいました。
 ここで、この室の内外は、以前あった通り寂然たるものにかえってしまったが、今度は、戸も表の方だけは一帯にあけ放してあるし、室内も頼まれもしない外来者が来て、相当に取片づけておいてくれたから、この分なら誰が来て見ても、血のあとなんぞに目をみはるものはありますまい。
 こうして、短い日はグングンはしょられて行って、九ツ、八ツ、とうとう暮六ツが鳴ったのに、室の内外は日脚の短さ加減のほかの何者も来《きた》りおかすものはない。
 とうとう日が暮れたけれども、物の気配が全く起りませんでした。こうなってみると、物は動かないが、象《かたち》が変るのを如何《いかん》ともすることはできません。
 日のカンカン照っている時、縁に立てきった障子の紙の新しいのは、人の心を壮《さか》んにするけれども、日が全く没した時に、中に燈火の気配もなく、前に雨戸が立てきられるでもなく、白い障子紙がそのまま夜気を受けてさらされている色は、また極めて陰深のものになりました。
 つまり、日中あけられない戸に凄《すご》いものが漂うとすれば、夜分隠されない障子の色はすさまじいものでなければならぬ。このすさまじい障子の色は、ずんずんこのままで夜色に浸ってゆく。

         三十二

 こうして、夜はしんしんと更くるに任せて行くが、誰あって障子の肌の夜寒を憐むものはないのです。
 無論あのままで、訪ねて来る人も、出て行く人もなかったのですが、夜もほとんど三更ともいってよい時分になると、ひそかにその裏の縁側の南天の蔭が物音を立て、そこから鼠のようになって這《は》い出した一つの人影を見出す――それは、鶴寿堂の若い番頭政吉に相違ない。でもよかった、息を吹き返して、ここまで逃げ出すことができた点に於ては、幸内よりもズット優った運命を恵まれている。やっと南天の茂みから這い出した若者のホッと安心したのは束《つか》の間《ま》――かわいそうにこの若者の後ろにはやっぱりのがれられない縄がついておりました。
 その縄を辿《たど》って後ろから続く人影こそは、いつもの通り、甲府の城下でも、江戸の本所でも、夜な夜な一人歩きして、闇を喰い、血を吸わねば生きておられない人。
 今晩は一人、お先供《さきとも》があるまでのものです。
 つまり、飛騨の高山の貸本屋鶴寿堂の若い番頭、なおくわしく言えば、高山屈指の穀屋の後家さんの男妾《おとこめかけ》を業としていた浅吉という色男の弟だと言われた同苗《どうみょう》政吉――が、この怪物のために時に取ってのお先供を仰せつかりました。
 政公の両腕は後ろへ括《くく》り上げられている。そこから長さ一丈ばかりになる一条の縄がつづいて、それが竜之助の片手に取られている。
 お猿が、めでたやな、といったようなあんばいに。
 政公は今、この一条の縄によって殺活を繋がれながらお先を打たせられている。腰が立つのか、立たないのか、南天をくぐる時からしてこけつまろびつ[#「こけつまろびつ」に傍点]している。
 境内《けいだい》を出て、丘を下って里へ出る。
 八幡町、桜山、新町の場末を透して加賀の山々を遠く後ろにして例の宮川の川原――月も星もない夜でしたから、先日来の思い出も一切、闇の中に没入され、一の町、二の町、三の町にも人の子ひとり通らない。但し犬は随時随所にいて、遠く近く吠えつつはあるが、特にこの二人にからんで来て吠えつくというわけではない。
 こけつ、まろびつ八幡山を下りて来たお先供は、この時分になって、存外落着いて腰ものびてきたかのように、すっくりと立っては行くが、そのすっくりが糸蝋《いとろう》のようで、魂のあるものが生きて歩んで行くとは思われない。
 この若いのの兄貴というのが、白骨温泉の夏場、イヤなおばさんなるものにさんざん精分を抜かれて、ちょうど、こんな腕つきで引き立てられて歩いたのを見た者もある。
 ああ人が来た、二人、三人、四人、手に手に提灯《ちょうちん》を提《さ》げている。御用提灯だ。御用提灯
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