りに人は無し、寺男を兼ねた夫婦の家は少し下のところにあるが、これは毎日、山仕事に行ってしまって、夕方でなければ戻らないことを政吉がよく知っている。
「もし、お雪様、お休みでございますか、鶴寿堂でございますが」
恐る恐る中を覗いて見たが陰深として暗い。でも、このまま引返すわけにはゆかない。充分、二の足も三の足も踏んでみた末に、この若い番頭は、ようようその一枚の戸口から、座敷の上へ這《は》い上りました。
「お留守でございますか」
駄目を押したが、手答えもなく、そろそろと侵入してみたが誰も咎《とが》める者もない。
「おやおや、お雪様にも似合わしからぬ、とりちらかしてございますなあ、何か急用で出ていらしったのか。それにしても……」
蒲団は敷きっぱなしであるし、机の上はと見れば、自分の註文の仕事が、やりっぱなしで、紙が辛うじて文鎮の先に食留められている。平常着《ふだんぎ》だけは脱いで、よそゆきの着替えをして行った形跡は充分あるから、それが若い番頭にとっては、せめてもの気休めとなるくらいのものです。いずれにしても慌《あわただ》しいことの限りである、と番頭は、そぞろ荒涼の思いに堪えられなかったが、その時自分の入って来た一方口が俄《にわ》かにけたたましくなったのは、思いがけない人がやって来たのではなく、さきほど行き過ぎた矮鶏《ちゃぼ》めが、何と思ってか引返して、この入口から縁の上へと侵入して来たものでありました。
「叱《しっ》! 叱!」
政吉は軽くそれを追い払って、ともかくもお雪ちゃんが、着物を着替えて出て行った形跡だけは明らかであるし、室の内も荒涼とは言いながら、何一つ盗まれているらしい様子はないことから、少し待っている限り、必ず戻って来るに相違ないものと鑑定しました。
それまで待っていてみましょう――という気になって、あけ放された裏の方の一枚を、もう二三枚繰って明るくし、あんまり出過ぎない程度で、室内を取片づけておくことも、心安立ての好意として斥《しりぞ》けられはしないことだと考え、何かと取片づけているうちに、どうしてもひとつ、炬燵《こたつ》の中へ火をおこして上げることが急務だと考えたのでしょう。
炬燵に火をおこした政どんは、このへんで少しいい気持になったものと見え、いつもお雪ちゃんがするようにして、炬燵を前にみこしを据えてしまうと、半ば折りめぐらされた金屏風の緑青《ろくしょう》の青いのと、寒椿《かんつばき》の赤いのが快く眼を刺激してうつらうつらした気分に襲われたものです。浅公の弟にしても、こんな場合には幾分、からかい心も出るものと見えて、こうして炬燵に納まり込んでしまってみると、ここへ不意にお雪ちゃんが帰って来た時、ただお帰りなさいでは曲がないと考えたらしいのです。一番、軽い意味でおどかしてやろうとたくらんだらしく、屏風の蔭、炬燵の後ろにひそみ隠れていて、主が帰って度を失う呼吸が少しばかり見てやりたいという気持になったのでしょう。
政どんはこうして、炬燵の中にまるくなっているうち、やがてうとうとと眠気を催してきたのは、金屏風の視覚から来る快感と、炬燵の中の程よい炭火から起る温覚とが、知らず識《し》らず、昨日来の商売疲れを揉みほごして行ったものと見えます。
あっ! と、この甘睡の落ちはなが、何かの力によって支えられたと覚った時に、政公はうしろから押しかぶさる圧覚を感じて、さてはと醒《さ》めようとした時は遅いのでした。自分の首は白い蛇のような人間の腕で、うしろからしっかりと抱え込まれていることをさとりました。
「あ! お雪ちゃん、じょ、じょ、ごじょ……」
と言っただけで、あとは言えないのです。
おそらくこの男は、後ろから巻きついた白い蛇のような人間の腕が、あまり白過ぎたものだから、これはお雪ちゃんの手でなければならぬと見たのでしょう。
自分がうたたねに落ちかけている時に、不意に立戻ったお雪ちゃんは、こっちのおどかしの裏をかいて、あべこべに自分をおどかしにおいでなすったものと、目の醒めた瞬間にはそう感じたが、次の瞬間に於て、その白い蛇のようにからみついた人間の腕というものの、吸い着いた力の予想外に強大なることに驚愕したものらしい、その瞬間に、もうお雪ちゃんのために裏をかかれたという幻覚は消滅して、自分の生命が脅かされているということを自覚した時にはすでに遅く、じょ、じょ、ごじょ……と言って寂滅したのは、冗談――お雪ちゃん、御冗談をなすってはいけませんと、言うべくして言い得なかった言葉尻であると見るよりほかはありません。
政どんの意識はもうそれでおしまいで、あとは、その白蛇のような腕が、ぐったりとした若者をズルズルと引っぱって次の間まで連れて行き、それから、これはまた別の屏風の裏の寝間の背になっている戸棚の中へ無雑作《むぞ
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