まったもので、おのおの御用提灯が右と左へ悠長に揺り出して行く。
この交替と引きつぎが済んでしまった後、気のせいか、この間の晩のように、柳の木蔭にまだ何か物怪《もののけ》が残っているようです。
あの時は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、あわててくしゃみを食い殺して背のびをしたが、そう毎晩、柳の下にがんりき[#「がんりき」に傍点]がいるはずはないが、どうも非常見廻りの連中が去った後に、おのずから人の気配が柳の木蔭から、ぼかしたようにうっすりと現われて、やがて影絵のような影がさしました。
それは別人でなく、この前の晩に宮川の川原の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中を、棺巻《かんまき》の着物をかかえてさまようた怪物、桜の馬場で馬子を斬ろうとして逸走せしめたあの覆面が、今晩もまた、夜遊びに出たのです。
何の目的ということもなく、何の理由ということもないが、一旦、夜遊びの味を占めると、少なくとも一晩に一度は夢遊の巷《ちまた》を彷徨《さまよ》うて帰らないことには、血が乾いて眠られないらしい。
この柳の木蔭にいたのは、今晩、この見廻りの連中を斬ってみようとのためでないことは、隠れていながら、少しも殺気を感じなかったのでもわかるが、ひらりと鱗を見せただけで高札場の後ろに消えてしまいました。
そこからは、加賀の白山まで見とおしの焼野原――
犬の遠吠えも遠のいて、拍子木の音も白み渡って、あたり次々に鶏の声が啼《な》き渡る。
三十一
その晩、相応院へ帰って来た机竜之助は、いつもあるべき人の気配《けはい》が無いことを直覚してしまいました。
その蒲団《ふとん》の裾につまずき倒れようとして踏みこたえながら、夜具の中へ手を入れてみたのですけれども、中は冷たくありました。
その面《かお》に、近頃に見なかった、すさまじい色が颯《さっ》と流れたが、どうする手だてもないと見え、そのまま刀を提げて、さっさと屏風《びょうぶ》のうちに隠れてしまって、その後の物音がありません。
夜は全く明け放たれたけれど、今日は早く起きて水を汲む人もなし、部屋を掃除する者もなし、膳を調えて薦《すす》めようとする者もないが、座敷の一方だけはあけ放されたままです。だがあけ放されたのは、その一方だけで、他の部分は、日脚が高くなっても戸足は寂然として動かないのです。
こうして日がようやく高くなっても、物の音は、内からも外からも起りません。寺男夫婦はこのごろ、夜の明けないうちに山伐りに出かけてしまうのを例とする。
日が高くなったのに、いつもあけらるべきはずの家の戸があかないのは寂しいものだけれども、その戸の一枚だけがあけられて、他のみんなが閉されたままであることは、むしろ凄いものです。最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱《くつぬぎ》に血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
こうしている間に、ずんずん時が経ち、日がのぼります。矮鶏《ちゃぼ》が夫婦で連れ添うて餌をあさりに来たことのほかには、いよいよ訪《おとな》うものなしで、開け放されたいちいちの戸が、唖《おし》の如く動かないでいるばかりでした。
けれども、ようやく一人の人があって、麓から登って来ました。例によって背に負うた萌黄色《もえぎいろ》の風呂敷包だけを見ても、これぞ毎日の日課としてやって来る鶴寿堂の若い番頭であることは疑いありません。
果して、若い番頭は、えっちら、おっちらとやって来て、
「おや――」
とつぶやきました。あのこまめなお雪ちゃんが、今朝はまだ戸もあけていないということがまず怪訝《けげん》の念を刺激したと見えます。それは尤《もっと》もな怪訝で、廻って見ると怪訝が一種の恐怖に近いものになりましたのは、あけないならあけないでいいが、その一枚だけが確かにあけられてあることを発見したからです。
若い番頭――たしか、新お代官の寵者《おもいもの》お蘭さんの言うところによると、浅吉の弟で政吉といったと覚えている。
政吉はその時に慄《ふる》え上りました。
盗賊? 人殺し?
同時に、まえ言った通り、敷居の溝と沓《くつ》ぬぎのあたり一面に血がこぼれているのではないかと打たれました。
だが、血はこぼれていなかったけれども、縁の下のところと、沓ぬぎとにおびただしい人の足跡がありました。
「あっ!」
と政吉が慄え上って、中を覗《のぞ》き込んだ縁の内側にはお雪ちゃんのさしていた、赤い塗櫛《ぬりぐし》が落ちているのを認めました。
「もし、お雪様、もし……」
辛《かろ》うじて呼んでみたけれども、返事がないのです。ないのがあたりまえで、返事をする者があるくらいなら、戸がポカンと口をあいているはずがないのです。
政吉は恐怖に襲われて、誰か人を呼んでみようとしたけれども、このあた
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