民共に滅茶滅茶にさせてはお気の毒だ、ひとつ掻《か》き集めてこの袋に入れて、ともかくもお船へ移して置いてあげよう。
 外では、大砲ではない花火の筒を横にしたのが、
 二発、
 三発、
 轟々――
 台所のあたり、たった今の晩餐の食堂のあたりも急に明るくなった。さあ、からめ手へ火が廻った。
 七兵衛も、有合わす麻袋へ田山白雲の作物や画具を手当り次第に投げ込んで、それを荷って、もうこれまでと庭へ躍《おど》り出した時に、
「そうれ、魔物がいた、切支丹のマドロスが、袋を担《かつ》いでそっちへ逃げた」
 七兵衛の姿を認めた寄手の叫び声。
「今、袋を背負った魔物が向うへ駈けて行った、早いのなんの、飛ぶように駈けて行った、船の方へ逃げたに違えねえ、それ、造船所へ押しかけろ、船をぶち壊して魔物を生捕れ! 一人も逃がさず、国賊に天誅《てんちゅう》を加えろ!」
 口々におめき叫んで、造船所をめがけてなだれかかったのです。
「天誅!」
「切支丹バテレン!」
「国賊、毛唐、マドロス、ウスノロ!」
 やがて、造船所の界隈が群集の暴動と焼打ちの的になりましたが、建物と違い、船は動くように出来てありました。
 群集の狼藉《ろうぜき》を蒙《こうむ》る以前に、船はゆらりゆらりと船渠《ドック》を出てしまいました。
 花火大砲も届かず、悪口雑言も響かぬところに、悠々として辷《すべ》り出してしまった船の形が、闇の波の中に鉄《くろがね》の橋を架けたように浮き進んでいるのを、暴民らは如何《いかん》ともすることができず、手を振り、足を踏んで、徒《いたず》らに叫びわめくのみでありました。

         二十三

 郁太郎を背負うた与八が、大菩薩峠を越えたのはあれから三日目。峠の上には雪がありました。
 ここには自分の建てた地蔵菩薩、その台座のあとさきに植えた撫子《なでしこ》も雪に埋れたのを掻《か》き起して、あたり隈なく箒をあて、持って来た香と花とを手向《たむ》ける。
 幼きものを御衣《みころも》の、もすその中に掻き抱き給うなる大慈大悲の御前《おんまえ》、三千世界のいずれのところか菩薩捨身の地ならざるはなし、と教えられながらも、特にこの地点が与八のためには忘れられないものにもなり、立去り難いものにもなるが、何をいうにも六千尺の峠、時は初冬、天候の程も測りがたない、背に負うた幼な児の上を思うても下りを急ぐに如《し》かずと思い直しながら、なお立去り難いこの地点に、地蔵様をうしろにして暫く立って眺むるこし方《かた》の武州路。
 ここを下れば、もうその武蔵の国の山は見納めということになるのだ、と思えば尽きせぬ名残《なご》りはあるけれど、見返ることは徒らに、無益の涙を流して愛慾の葛藤を増すばかり。
「さあ、お地蔵様、お大切《だいじ》にござらっしゃれませ――いつまたわしらは帰って来られるか、来られねえか、そのことはわからねえでござんすが、それでも、諸国修行のことが無事に済みました暁は、またここの地点でお目にかかりまする。わしらの故郷といっては、どこがどうだかわからねえでございますから、無事に諸国修行が済みましたら、東西南北を合わせて、わしらはひとつこの峠に草《くさ》の庵《いおり》というようなものを建て、この世の安楽と後生の追善のために、ここでお地蔵様のお守をして一生を暮したいもんだと心がけてはおりますがねえ……」
 与八は再び跪《ひざまず》いて、自分のこしらえた地蔵菩薩にお暇乞いを申し上げ、
「南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》地蔵菩薩――お別れのついでにこの笠をさし上げましょう、峠の上は下界より嵐がひどいことでござりますから、たとえ一晩でもこの笠で雨露《あめつゆ》お凌《しの》ぎ下さいまし」
 自分の持って来た菅笠《すげがさ》を、台座に攀《よ》じ上って地蔵菩薩の御頭《おんかしら》の上に捧げ奉る。
 姫の井の道、見返りがちなる大菩薩峠の辻――木の間枝のはずれから、いつまでも見えるあの笠。菩薩も笠を傾けて送り給うと見ゆる。
 姫の井の道を、左に広やかなかやのを見て歩いて行くとまもなく大菩薩西の峠の萩原の小平。珍しやここにまだ新しい山小屋が一軒、その以前に見かけなかったものだが、猟師か、山番の小屋か、立寄って見ると締め切った入口に札がかけてある。
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「長兵衛小屋
大菩薩峠ノ道ヲ通ル旅ノ人、往々魔風ニ苦シメラルルコトアリ、依ツテココニ茅屋ヲ造リ報謝ノ意ヲ表スルモノナリ、貴賤道俗トナク、叩イテ以テ一夜ノ主ナルコトヲ妨ゲズ
   年月日
[#地から2字上げ]嶺麓  大藤村有志」
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 さては奇特の人ありけり、これもこれ艱《なや》み多き世路をすくわん菩提心の一つ、暫く御報謝にありつかんと、与八は戸を押してみると、容易《たやす》くあいた。中に入って見る
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