と、素人《しろうと》手づくりの山小屋とはいえ、相当に入念の木口――炉も切ってあれば、鉄瓶、手桶、水注、流し元、食器の類も一通りは取揃えてある。
 では、せっかくのことに、今晩はここで一夜を明かさしてもらうべえかな。
 峠の上は寒いとはいえ、この固め切った屋内で、この炉の中に夜もすがら火を焚いて置けば、夜具蒲団は無くともけっこう夜を過ごせる、一歩外へ出れば焚物に不足はなし、外へ出るまでもない、炉辺には、もう夥《おびただ》しい薪が、しかも程よく割り揃えて山のように積みこまれているではないか。
 おお、この戸棚をあけて見ると、薄いながらも夜具が一組、やあ、こちらには米も、塩も、醤油までが使い残されている。
 与八は、この小屋を建てて、普《あまね》く道行の人に施さんとする有志の功徳の親切なることを、世にも有難く思い、行き暮れた旅人が、これによって、どのくらい救われたかの記念を、さまざまの壁書に見ました。
 それは、まだ新しい板張りの壁に、ほとんど隙間のないくらいに楽書が書かれてある。かなりの長い文句を書いたのもある、歌や、発句のたぐいを書いたのもある、単に何月何日同行何人と、その名前だけを記しているのもある。
 与八は浅からぬ興味をもって、その長短錯落した楽書を、次から次へと読んで行きましたが、ここは相当に教養のある人も通ると見え、与八の学問では読み抜き難い文字も多いけれども、あとを辿《たど》って見ると、
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「われら二人、やみ難き悩みより峠を越えて江戸へ落ち行きます、江戸で一生懸命働いて、皆様に御恩返しをするつもりでございます。
   月日
[#地から2字上げ]あやめ
[#地から1字上げ]大吉」
[#ここで字下げ終わり]
と書いたのは戯れとは思われない。この文面で見ると、女の筆で現わされている。してみれば、若い夫婦か、恋人同士が、家庭の折合いつかず、やみ難き悩みのうちに相携えて江戸へ走るために、国を去るの恨みをとどめた心持がわかると共に、この若女房と思われる人の才気のほども思われないではない。
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菩薩未成道時 以菩提為煩悩
菩薩既成道時 以煩悩為菩提
[#ここで字下げ終わり]
と達筆で認《したた》めたのは与八の学問には余る。
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蓮の花少し曲るも浮世|哉《かな》
[#ここで字下げ終わり]
と、古句か近句か知らないのを認めっぱなしで年月もところも入れてない。
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失恋ノ悩ミニ堪ヘ兼ネテ今月今日此ノ処ニ来レリ
[#ここで字下げ終わり]
と、若い男の筆で書いてある。
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来てみればさほどでもなし大菩薩
[#ここで字下げ終わり]
とぶっつけたのもある。
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我慢大天狗
邪慢大天狗
打倒大天狗
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と走らせたのもある。
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借金スルノハツライモノ
鍋釜マデモミンナ取ラレテ
スツテンテン
[#ここで字下げ終わり]
と、途方もない自暴《やけ》を飛ばしたのもある。そうかと見れば、また一方にやさしい女文字、
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「三寸の筆に本来の数寄を尽して人に尊まれ、身にきらを飾り、上も無き職業かなと思ひし愚さよ――我も昔は思はざりしこのあさましき文学者、家に帰りし時は、餅も共に来《きた》りぬ、酒も来りぬ、醤油も一樽来りぬ、払ひは出来たり、和風家の内に吹くことさてもはかなき――」
[#ここで字下げ終わり]
 何の意味とも知れないが、その筆つき優にやさしく、前の大吉、あやめの二人名の女文字になんとなく通うものがありとすればありと見られ、その筆のあとに血が滲《にじ》んでいると見れば見られてたまらない。
 転じて、西に向いた方を見ると、
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「最モ美シイ芸術ホド、自分ノ最モ悪イコトヲ自覚シテヰル人間ノ作ニ成ルモノデアル」
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と焼筆で走らせたものもある。その次には、
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大魚上化為竜 上不得獣額流血水為舟
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 これも与八にはちんぷんかん。
 更に一方の上壇、白檀張《びゃくだんば》りの床の間とも見える板の表には、
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平等大慧音声法門
八風之中大須弥山
五濁之世大明法炬
[#ここで字下げ終わり]
 いともおごそかに筆が揮《ふる》われているのを見る。

         二十四


 かくて、七里村恵林寺へ着いた与八。折よく慢心和尚は在庵で、与八を見て悦ぶこと一方《ひとかた》ならず、ここにまた当分の足を留める与八。
 昼は、与八は寺男のする寺の内外の雑役の一切を手伝った上に、寺所有の山へも、畑へも行く。随所に郁太郎を連れて行って、しかるべきところへひとり遊びをさせて置くが、郁太郎は極めてお
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