があいて、そこからなんともたまらない悲しみの風が濛々《もうもう》とこみ上げてきました。
 七兵衛自身でも何が今、自分をこんなに悲しいものにしたのか、ちっとも分りませんが、ひとりでに悲しくなって、悲しくなって、もうとめどなく涙がこぼれ返って来て、隠そうにも隠すことができなくなったから、ぜひなくことにかこつけてこの席を外《はず》し、そうして歓楽の室外へ一歩出て行って見ました。
 どの室も早やよく取片づいていて、すべての人気《ひとけ》というものが、あの晩餐の席へ集中されてしまっただけに、ほかの部屋のガランとした淋しさ、もうすでに主無き家という気分が、ひしひしと身に迫るのを感じてみると、七兵衛はここでもたまらなくなって、ほとんど声をあげて泣こうとして僅かにそれを噛《か》み殺してしまって、我知らず馳込んだのは、駒井の常に研究室とするところの部屋であります。
 さいぜんまでは守護不入になっていたこの研究室も、明日立つことになってみれば、すっかり開放されている。その中に走り込んだ七兵衛は、いつも駒井が研究に疲れた眼を放つところの窓に来て、そこにしがみつきました。
 何だか知れないが、涙だ、涙だ。こんなめでたい鹿島立ちの席に、みんなが無邪気に興が乗ればのるほど悲しくなって、どうしても意地が張りきれないのは、自分ながらどうしたものだ。
 ああ、たまらない。

         二十二

 だが、七兵衛は泣いているわけではないのです。ただ、無限に悲しい思いがするだけで、それが、何の理由に出でるか、よくわからないのみですから、すべてに於て取乱すというようなことはありません。
「ああ、忘れられた奴がまだ一つあるわい」
 今、七兵衛はムクの物《もの》の気《け》を感じたのです。ムクはないたわけでも、吠《ほ》えたのでもないけれども、この窓の下へ歩み寄って唸《うな》っているのはムクだ――ということを七兵衛が感得しました。
「ムク!」
 この犬が、この頃に至って、自分というものに対する敵意をすっかり取払ってくれたことは、七兵衛にとって驚異でなければならない。
 今晩、この犬は忘れられていたのだな。本来ならば、この犬にも今晩の食卓の一席を与えてしかるべきものであった。誰もムクをと言うものもなかったのは、ムクを忘れたのではない、忘れねばこそというわけなんだろう。七兵衛は、今まであけなかった窓を開いて見ると、果して巨大なるムク犬が前面を過ぎて行くのを見ます。窓をあけられた途端にちょっとこっちを振返って挨拶をしたままで、また、のそりのそりと暗いところをあちらへ向けて歩んで行く、その体《てい》を見ると、忘れられようとも、忘れられまいとも、この番所の夜を守る責任はかかって我にあるのだ――人を心置きなく楽しませるためには、自分が間断なき警戒を必要とするという忠実なる番犬の心と言うよりは、名将は士卒の眠っている間、自身微行して歩哨《ほしょう》の戒厳を試むることあるというにも似ている。
 七兵衛はそれを見ると、尊《とうと》いような気がしました。内で、一切を忘れて清らかな興に耽《ふけ》っている人たちも尊いが、こうして忘れられながら夜を守っている犬も尊い。どちらも尊いが、自分だけが、どちらにも一方になりきれないことを、またひとしお悲しく思われないでもありません。
 こうしてムクの歩み行く方向を見ると、暗い中でも物を見るに慣らされた眼が、ハッキリと、自分のこしらえた生田《いくた》の森の塀《へい》と、それから築《つ》き出した逆茂木《さかもぎ》へと続いて行きました。
 今までこみ上げて来た感情のために、それがうつらなかった。人がいる、人がいる。先日来、大挙して騒々しく示威運動を海辺で試みていたのが、この二三日、ぱったり止まったのもおかしいと思った。見れば、自分が引いたその逆茂木の下を、幾多の人間が腹這《はらば》いになっている、それからあの石垣のところにも、たしかに人がぴったりひっついている。
 おお、おお、一人や二人の人じゃない、ほとんど物蔭という物蔭には、みんな人がへばりついて忍んでいる。ああ、今晩、合図を待って、一度に攻め寄せる手筈になっているのだ。
 それを気取《けど》った時に七兵衛は、駒井に注進をしようとあわただしく窓の戸をとざす瞬間、下で轟然《ごうぜん》たる音がすると共に、その戸をめざして一つの火の玉が飛んで来ました。
 火の玉というよりほかはない、七兵衛は危なく身をかわしたけれども、火の玉は室内へ落ちてパッと燃えひろがりました。幸い、七兵衛は自分の身になんらの異常を覚えなかったから、その爆発した火を飛び越えて廊下へ出てしまいました。
 この出来事を、興半ばなる一座の者を驚かせずして、駒井だけに注進するわけにはゆきませんでした。仰天する一座を一室にかたまらせて置いて、七兵衛は駒
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