あった上に、同勢の健康にも変りはありませんでした。
 駒井もこの一行の来てくれたことを、無上の悦びとも、満足とも、思い設けぬ自分の一粒種《ひとつぶだね》の登というものを見ると、今まで曾て経験しなかった、現在、血をわけた親身《しんみ》というものの情愛を思い知ると共に、この子の母としてのお君という薄命な女のために、新たなる創痍《きず》を胸の中に呼び醒《さ》まされて涙を呑みました。
 お松という子の珍しい殊勝な性格が、駒井を感服せしめたのも、久しい後のことではありません。
 こうなってみると、一日も早くこの一行を収容して、別な天地に向って乗出してみたくもあるし、また周囲の事情がそれを急がせもする――というのは、例の誤解やら、圧迫やらが、一旦は退いたりとも、その後、いよいよ※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》を深くしていることは確かで、その辺の空気が緩和するには、ともかくも一刻も早くこの所を撤退するをもって最も賢明とすることは、何人よりも駒井がよく心得ている。
 そうして船そのものも、動かす分にはもうすべてに差支えが無くなっている。動かして近海を航海する能力にも自信を持ち得るようになっているし、問題はただ大砲だけのものだが、あれは有ってもよし、無くてもよい。むしろ自分たちの理想のためには無い方がいいようなものだが、それでも万一の備えと工夫していたあれも、九分通りは出来上っているが、試射と、据附けとが残されている、もう一週間もしたら、万事解決するだろう。
 乗組人員としては、さし当り自分のほかには、
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画家、田山白雲
七兵衛
お松

清澄の茂太郎
兵部の娘
支那少年|金椎《キンツイ》
マドロス
乳母
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 このほか、機関方、船大工として造船所の方に、
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松吉
九一
十蔵
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の三人が残してある。なお漁師の太造という老人とその孫が一人、行きたがっているから、それも予定のうちに加えてある。
 これで都合十五名の乗組になるが、ゆくゆく、都合次第ではこの倍数を収容する設備は充分に整っている。
 そこで、この以前から、船内の設備や、食料品の積込みはすっかり手を廻して、いずれも出帆のできるようになっているが、人事方面でただ一つの心がかりなのは田山白雲の消息です。
 香取、鹿島だけで帰るということだから、もう帰っていなければならないのに、杳《よう》としてその便りが無いのは、心配といえば心配だが、あの先生のことだから、途中、何か遊意|勃々《ぼつぼつ》として湧くものがあって道をかえたのか、そうでなければ、会心の写生に熱中して帰ることを忘れているのだろう――
 とにかく、自分としては、このまま船を行方《ゆくえ》も知らぬ外洋へ向けて出発せしめんとするのではなく、ひとまず陸前の石巻《いしのまき》へ回航させて、かの地を第二の根拠として、なお修復と改良を加えてからのことだから、仮に先発してみたところで、石巻へ同志を呼び集めるのは至難のことではない。
 そう思い立つと、駒井は一日も早く出帆するに越したことはないという気分に迫られ、乗組一同もまた、喜んで出帆の一日も早からんことをせがんでいるくらいです。それと一方、毎日毎日、番所や造船所を三々五々としてうろつくならず[#「ならず」に傍点]者や、土地の住民らの目つき、風つきの険しくなるのとに迫られ、天候も見定めたし、そこで駒井も、いよいよ明早朝に出帆のことを一同に申し渡し、そうして今晩はこの番所で、立退きの記念の意味での晩餐会を開くことになりました。
 そこで、今晩の晩餐の席は甚《はなは》だ賑やかで、楽しいものでありました。料理主任の金椎は一世一代の腕を振うところへ、マドロスが船房仕込みの西洋味を加えようと力《りき》んでいる。
 お松ともゆる[#「もゆる」に傍点]女とは、それぞれたしなみの身じまいをして席の斡旋役に廻るし、乳母は登を椅子に安定させて置いて、自分は給仕に奔走する。
 清澄の茂太郎は、登に対して兄さん気取りで子守役に当り、やたらに得意の出鱈目《でたらめ》をうたって聞かせる。七兵衛はその間に立廻っての肝煎役《きもいりやく》――それから駒井を真中に、一同が食卓についてからその賑やかさというものは、今宵限り立って行く名残《なご》りのことも、明日は海を渡って見知らぬ遠方に行くという念慮も、すっかり忘れてしまって、石女《うまずめ》も舞い、木人も歌い、水入らずの極楽天地であります。
 こうして、すべてが泰平の和楽に我を忘れて興じ合っているのを見て、当然これに捲き込まれた七兵衛が、急になんだか物悲しくなってたまらなくなりました。この老幼男女が打群れて、興がようやく乗ってきた時に、七兵衛の頭の中にポカリと穴
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