何を言っているのだ、そんなことで訪ね先がわかるものか、もっと要領のよい名ざしがありそうなものだと、お絹は心の中でそれをあざけりながら、庭を辿《たど》って、いっそ万年青をよして柳にしてみようかというような気にもなり、木々の枝ぶりを物色して、ちょうど先日、神尾が、凧を飛ばした子供らのために入場を許した裏木戸のところで立ち止まると、ついその外で、
「もし、あの、この辺に四谷の大番町様のお控え屋敷がございましょうか」
 外から、自分のいる気配を見て取って問いかけたらしいから、お絹は無愛想に、
「存じませんよ、よそをたずねてごらんなさい」
「その声は、もしや御新様《ごしんさま》ではございませんか」
「おや?」
 同時にお絹も、聞いたような声だと思いました。
 それにしても、やっぱりまだあんな黄いろい声で、御用聞程度のほかのものではないと思っているから、聞いたような声ではあるが、誰がどうとも見当がつかないでいると、
「神尾様の御新様、お絹さまではございませんか、わたくしは忠作でございますが」
「あっ」
 お絹は、なぜ、今まで、それならそうと気がつかなかったかと思いました。
 忠作、忠作! 最初からちっとも違っていなかったのだ。
「まあ、忠どんかい」
「どうも御無沙汰を致しました」
 裏木戸は苦もなく開放されて、
「どうして、ここがわかったの」
「築地の異人館で聞いてまいりました」
「異人館で……」
 さすがのお絹も、忠作のたずねて来たことが、あまりに意外であったものだから、全く面食《めんくら》ってしまったようでした。
「まあ、ともかく、こっちへお入り」
「御免下さいまし」
 郡内の太織かなんぞに紺博多の帯、紺の前垂、千種《ちぐさ》の股引《ももひき》、隙《すき》のない商人風で固めた上に、羽織とも、合羽《かっぱ》ともつかないあつし[#「あつし」に傍点]のつつっぽを着込んで雪駄《せった》ばき――やがて風呂敷をかかえ込んで、お絹に案内され、お花を活けかけている主膳の居間へ通され、きちんとかしこまったところは、以前よりはまたいっぱしませている。
 お絹は、この少年とも、少しの間、生活を共にしたことはあるのです。
 この抜け目のない金掘少年を徳間峠の下からそそのかして連れ出した。そうして二人が神田のある所で寄合世帯を持ったのも、そんな遠い昔のことではないのだが、それはおたがいに利用し合うという狡猾《こうかつ》な腹から出たのだから、むろん浮気っぽい後家さんが、子供俳優を可愛がろうというような気分であろうはずもなく、お絹は、この目から鼻へ抜ける山出しの少年を利用して、自分の番頭兼事務員としようともくろみ、忠作の方ではまた、お絹の持っている小金をやりくりして自分の足場にしようとの腹でしたから、二人の生活は飽き飽きしていたのだから、貧窮組の騒ぎや、浪士の掠奪《りゃくだつ》で破壊されるのを待つまでのことはないのでした。
 その後はおたがいに何のわだかまりもなく、消息も無かったのが、今日になって、わざわざ先方から探し当てて来たのも思いがけないものだが、本来、浮気そのもののお絹は、年下の若いのにわざわざ訪ねて来られてみると、金と算盤《そろばん》のほかには目の無い若造だと知りつつも、悪い気持はしないで、かえってまた、多少の昔懐かしいものさえ湧いて来て歓迎する。
「よく、ここがわかったねえ」
「実は御新様、あなたが、築地の異人館においでなさることをね、お見かけ申しましてね、あなたが異人さんたちと深く懇意にしていらっしゃる御様子ですから、それで一つ、お頼みがあってあがったようなわけなんですが」
と忠作は、一別来の挨拶の後にこう言って、用件の前置をしました。
 無論、この少年のことだから、単に昔の人を懐かしがって、御無沙汰お詫《わ》びに来たのではない、来るには来るで、何かつかまえどころがなければわざわざやって来るはずはない。つかまえどころというのは、何かこの機会に自分の得《とく》になるようなきっかけ[#「きっかけ」に傍点]を掴《つか》みたいから、やって来るものであることは疑いないのだが、それがこっちも一口乗っていいことか、悪い無心か、その辺は多少無気味である。
「何ですか、言ってごらんなさい」
「異人館の番頭さんに、わたしをひとつ、御紹介していただきたいんです」
「へえ、そうして、どうしようと言うんです」
「実はね……御新様、これからの商売は異人相手でなければ駄目です」
 そら来た、この若造、どのみち商売に利用の意味でなければ、得の立たないところへ御無沙汰廻りなぞする男ではない。
 そこを忠作は透《す》かさず、次のように説きたててしまいました。
 自分も、いろいろ商売に目をつけているが、どうしてもこれからは異人相手でなければ、大きな仕事はできないということをつくづく悟りま
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