をつかったり、人の太腿を抓《つね》ったりすることは、あたりまえの挨拶と心得ているに過ぎない、下町の棟割《むねわり》の社会などには、こんなことはざらにある、すなわち、親爺や兄貴などから、そんな挨拶の仕様を仕込まれていることさえ多いのだ。
あいつは必ずしも低能じゃないだろう、そうしているうちに、普通の女として発達するのだろう。発達する、俗に色気が出るという時分になれば、かえってあんなことはしなくなるものだ。
だが、この二三日、姿を見せないのは、なんとなく淋しいな、ほんとうに物足りない。お絹という奴にも、ずいぶん淋しい思いをさせられたが、このごろは慣れっこになってしまったのか、今日このごろは、あの低能の来ないことが、いっそう自分の心を空虚にしている、心というものは変なものだ、神尾はこういったような不満を感じて、
「よし坊は、どうしたのだ、今日は来ないのか」
こう言って子供たちに鎌をかけてみると、
「ああ、殿様、よしんベエはお女郎に売られたんだよ」
「えッ」
神尾がここでもまた、子供たちに度胆《どぎも》を抜かれたという始末です。
「よしんベエはねえ、吉原へお女郎に売られたんだから、殿様、買いに行っておやりよ」
神尾が第二発の爆弾を子供からぶっつけられて、ヘトヘトになりました。それでも足りない子供たちは、
「あたいも、いまに稼《かせ》いで、お金を貯めて、お女郎買いに行くの、よしんベエを買いに行ってやらあ」
彼等は、自分の家の製造物が問屋へ仕切られたような気持で、友達の売られたことを語り、お小遣《こづかい》を貰っておでんを食いに行くと同じ気持で、その遊び友達であった異性を買いに行くことを約束している。
さすがの神尾も、子供たちから続けざまの巨弾を三発まで浴せられて、のけ反《ぞ》っているのを見向きもしない子供たちは、
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おんどら、どら、どら
どら猫さん、きじ猫さん
お前とわたしと駈落《かけおち》しよ
吉原|田圃《たんぼ》の真中で
小間物店でも出しましょか
一い、二う、三い、四う
五つ、六う、七、八あ
九の、十
唐《とう》から渡った唐《から》の芋
お芋は一升いくらだね
三十二文でござります
もうちとまかろか
ちゃからかぽん
おまえのことなら
負けてやろ
笊《ざる》をお出し
升《ます》をお出し
庖丁《ほうちょう》、俎板《まないた》出しかけて
頭を切るのが唐の芋
尻尾を切るのが八つ頭
向うのおばさん
ちょっとおいで
お芋の煮ころばし
お茶上れ……
[#ここで字下げ終わり]
二十
その翌日、主膳が外出した後の居間へ、お絹が入って来ました。
今日は在宅のはずだが、おとなしいのは、書に凝《こ》っているからだろうと、来て見るともういません。よって、お絹は手持無沙汰に、何かと室内を取片附けてみるうちに、床の間のお花がしなびているのを目につけて、これはひとつ、活《い》け換えて置かねばならぬと考えたのです。
わざわざ使を花屋まで走らすまでのことはなし、庭を探して何か有合せのもので、趣向を凝らそうと思いました。
主膳の書と違って、お絹の花は素人芸《しろうとげい》ではなく、これで充分食べて行かれる腕はあるのですが、近来、めっきり腕を遊ばせて置いたから、今日はひとつ、うんと腕によりをかけてやろうという気になりました。
そこで庭へ下りて、残菊にしようか、柳にしようか、それとも冬至梅か、万年青《おもと》かなんぞと、あちらこちらをあさった揚句、結局、万年青が無事で、そうして豊富でよかろうというような選定から、座敷へ戻ってしきりに鋏《はさみ》を入れているうちに、これもいつしか三昧《さんまい》という気持に返って、お花の会の主席を取るような意気込みにもなり、ああでもない、こうでもない、この葉ぶりも面白くない、ではもう一ぺん庭をあさって、おもしろいのを見つけ出して来ようという気になっていると、折しも、前の庭の垣の外、いつぞや子供たちが凧《たこ》をあげて、ひっからませたあたりのところで、しきりに呼び声がしました。
最初のうちは、豆腐屋か、御用聞が、近所の台所を叩いているのだろうと気にもとめなかったが、そうでもなく、その声はこの屋敷の廻りだけをうろつきながら、当てもなく呼びかけているような声でありました。
「四谷の大番町様のお屋敷は、この辺でございましょうか」
根岸くんだりへ来て、四谷とか、番町様とか言ってたずねている。お絹は頓馬《とんま》なたずね方をする御用聞もあるものだなと聞き流しながら、鋏を持って再び庭へ下りて来ると、
「もし、ちょっと承りとうございますが、この辺に四谷の大番町様のお下屋敷がございますまいか」
やっぱりぐれている、ここは呉竹《くれたけ》の根岸の里の御行《おぎょう》の松、番町だの、四谷だの、
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