るほどのことはないはずだが、実は動顛《どうてん》させられてしまったので……こいつは怖いということを知らない、知らないのではない、本来、怖いもの以上に出来ている奴だ、世に馬鹿ほど怖いものはないとはよく言った。それにしてもこの馬鹿に、誰がこういう手筋を教えたのだ。
主膳がこの時に舌を捲いたと共に、この無意識な挑戦に対しては、その教育上の躾《しつけ》の上から目に物見せてやらなければならないと、覚悟を決め、右の手を延ばして、当るところを幸いに折檻《せっかん》を加えてやろうとした途端に、
「よしんべえがいねえよ」
「よっちゃんが迷子になってしまったわ」
「神隠しに会ったのかも知れないわ」
「隠れんぼして、ばかされると、神隠しにされたっきり出てこないんですとさ」
「よしんべえは少しお馬鹿だから、天狗様にさらわれたかも知れない」
「よしんべえ」
「よっちゃんよう」
「早く出ておいでよう」
「もう代りよ、たんこよ」
「早く出ておいで」
「のがしておしまいよう」
「来ないとおいてけぼりにして、みんなで帰ってしまうよ」
こんな声が庭の方で、子供の口々に叫ばれるのが、よくここまで聞える。それは、主膳の傍らに隠れがを求めている低能娘ひとりを当てに叫ばるる声に相違ないけれども、さすがに、この奥まで入り込んでいるとは、子供たちも考えていないと見えて、その持場の許された場面だけに物色《ぶっしょく》の叫びをあげているらしい。その声々ははっきりここまで聞えるけれども、この低能娘はおどり出して、「あいよ」ともなんとも存在を示さないし、なおさらそれが聞えているはずの神尾主膳が、早く追い立ても、追い出しもしてやらない。
子供たちは、呼び疲れ、探しあぐんで、やがて忘れたもののように静かになってしまったのは、そのへんで諦《あきら》めて、こんどは河岸《かし》をかえて遊ぶべく、この屋敷をみんな出て行ってしまったものに相違ありません。
十九
それから後、この低能娘も、よく遊びに来ることはあっても、主膳の居間へ闖入《ちんにゅう》するようなことはありませんでしたが、それでも仲間と遊んでいるところへ、主膳が通りかかると、ぽーッと面《かお》を赤くして妙に色っぽい目をして見せる、と、主膳はそれをひっさらうようにして自分の居間へ連れ込んでしまうこともあれば、いなくなったと思っていたその娘が、主膳の居間から、そっと廊下伝いに出て来たところを見たというようなわけで、子供たちが納まらなくなりました。
子供たちとはいうけれども、これは、育ちがいいといった者のみではないから、気を廻すことにかけては、へたな大人よりませたものがいくらもいる。
「おかしいなあ、殿様とよしんべえとおかしいよ」
という評判が立ってしまったのは是非もないことで、「まあ、いやなよっちゃん、殿様のおかみさんになるの?」といったようないやみはまだ罪がない分として、なかには、思い切った露骨な、卑猥《ひわい》な文句を浴せかけたり、楽書をしたりする者が出来てきたが、当人の低能娘はいっこう平気なもので、なぶられることを誇りともしないが、苦痛ともしない。いわばしゃあしゃあとしたもので、でも、主膳が出て行くと、子供たちは怖がって、表立って悪口は言わないが、眼を見合わせて三ツ眼|錐《ぎり》の殿様と低能娘とを見比べたりなんぞする。
しかし、それもその当座だけのことで、主膳が低能娘を始終引きつけているというわけではなし、低能娘もまた殿様だけにじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ついているというわけでもなし、やっぱり以前のように子供たち共有のおもちゃになって、おいらんになれと言えばおいらんになり、夜鷹《よたか》の真似《まね》をしなさいと言えば教えられた通りにして逆らわないものだから、殿様との相合傘もいつしか消えてしまっている。主膳にしても、いかに好奇とはいえ、まさかあんな馬鹿娘に、しつこく手出しをしているとは思われない――
しかし、この二三日、どうもあの馬鹿娘の姿が見えないようだ。子供たちの家に来ることは以前と変らないから、主膳がそれとなく行って見ても、どの組にも低能娘がいない。こうなってみると、主膳がなんだか手のうちのものを取られたような淋しさを感じないでもない。
低能ではあるけれども、あの色っぽい眼つきがどうも忘れられない。低能とはいうけれども、菽麦《しゅくばく》を弁じないというわけではなく、お感じが鈍いというにとどまり、まだ知恵が出きらないのかも知れない、もう少し発達すれば人並みになるのだろう、まるっきり馬鹿扱いにはできないのだ。或る点に於ては馬鹿どころではない、主膳に舌を捲かせるほどの離れ業を見せているのだが、それは天性、その部分が発達し過ぎているというわけではなく、そういう家庭や周囲の中で育ったから、色っぽい眼
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