返して、その人をたずねて、あの苦しみを取戻さねばならない、それにしては出立が違っていた、もう一足も、こんな旅は続けられない。
お銀様の悩乱と昂奮は、ついにここまで到着しましたけれど、お銀様は米友ではありません。米友ならば、昂奮した時がすなわち行動に移るの時であるけれども、さすがにお銀様にはその余地があります――
ただ、旅行というものを極度に忌避《きひ》する一念がこうまで昂上してみれば、今後のことは時間の問題のみであります。熱火に溶け行くような胸と腹を抑《おさ》えつつも、つとめて冷然と立っているのがお銀様の一つの習い性でなければなりません。
十一
そうしているお銀様の足許へ、その腰のあたりまでしかない一つの小さい物体が現われました。
「モシ、桑名からの二番船はまだ着きませんですか」
「え」
思いを天上にのみ走《は》せていたお銀様が、ぎょっとして眼を地上におろすと、これはまた、天上に空《くう》なる今の弁信の生《しょう》の姿が、現実にここへ落ちて来たかと思われるばかり――よく見ればもとより違います。弁信よりは、もう少し稚《ちい》さい、十一二歳でもあろうか、やっぱり弁信と同じことに頭を円めて、身に法衣を纏《まと》っているが、弁信と根本的に相違しているのは、あれはあれでも男僧の身でしたが、これは女の法体、一口に言ってしまえば尼さんです。そうして弁信のように、永久にその眼を無明《むみょう》の闇に向けられているというような不幸な運命に置かれていないで、比較的利口そうな、そうしてぱっちりした眼をもった、世の常ならば、美しいといった方の女の子であるが、頭上から奪い去った黒いものと、身に纏わされた黒いものとが、少女としての華やかさをすべてにわたって塗りつぶして、その小さい手に持ち添えた数珠《じゅず》までが哀れを添える。
この小尼は、こんどは海の方を眺めながら、再びお銀様に問いかけました、
「桑名からの二番船がまだ着きませんですか」
「まだ着かないでしょう、ほら、あの生簀《いけす》の向うに大きな帆が見える、あれがそれなんでしょう」
「そうでございますか、では、程なくこれへ着きますなあ」
「風が追手だから、まもなく着きますよ」
「左様でございますか」
小尼はおとなしく、入船の白帆をまともに眺めて待っている。
お銀様はそこでちょっと頭脳を転換させられたけれ
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