ども、ただなんとなく、急に立去り難いものがある。せめて、あの船の着くのを見ていてやりたいような気分から、傍《かた》えの小尼を相手に暫くの間――
「お前さん、あの船で来る人を待っているの?」
「はい、お父《とっ》さんが、たぶんあの船でいらっしゃるだろうと思います」
「そう……」
お銀様はなにげなく受けたけれども、この小尼が言ったお父さんという言葉が、異様な感じをもって聞えました。
いとけないのに尼さんにされるほどの運命を持った人の子というものには、どうせ温かい親というものの観念からは遠かろうと思われるのに、父を待ちこがれるらしいこの子のそぶりを異様に感じながら、お銀様は桑名戻りの船を見ている。小尼もまた同じようにして、お銀様の傍を離れようとはしない。船はようやく近づいて来る。船が着くと、河岸一帯がどよめいてくる。お銀様は、乗込みの先を争うわけではなく、到着の人を待ち受けるわけではないけれども、それでもその動揺の空気につれて、なんとなくわが心もどよめいてくる心地がする。
その時、固唾《かたず》をのんでいた小尼が、お銀様の面《かお》を見上げるように言いました、
「モシ、わたしのお父さんが通りましたら、お知らせ下さいましな、ツイ、わたしが見はぐれるといけませんから、どうぞあなた様にもお願いいたします」
「でも、わたしはお前のお父様を知りませんよ」
と、お銀様が正面を切りながら答えたのは当然でした。
「わたしのお父さんは、色が黒い方で、背は低い方で、身体も痩《や》せていますが、ただ、この額のところから頬のところへかけて、大きな創《きず》がございます、若い時に、木を伐《き》りに行って怪我をした大きな創がございます」
数珠《じゅず》で自分の額を撫で、こう言いながら、またお銀様の面を見上げました。その時にお銀様は、自分の面をそむけるような形で、
「では、お前さんの方で気がつかないうちに、お父さんがお前さんを見つけるでしょう」
「いいえ、お父さんは、わたしが迎えに来ているということを知らないでしょう」
「それでは、大きな声で呼んでごらんなさい」
「でも……」
小さな尼は口籠《くちごも》って、
「でも、お父さんを呼びかけることが、あの人の為めにならないかも知れません……どうぞ後生《ごしょう》ですから、小柄な、面の黒い、そうして額際から頬へかけて大きな創のある人にお気がつきまし
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