の中に、こんなことの覚えがある――すべて感激に価することは、さほど大いなることではありません。我々生きとし生けるものの一刻も無かるべからざる太陽の光、出で入る息のこの大気、無限に流るるこの水――こういうものに対して、その恩恵を誰も感謝するものはないのに、一紙半銭の値には涙を流してよろこぶ。
偉大なる徳は忘れられるところに存する――というようなことを、あのお喋りが喋って聞かせたことがある。
十日飢えて一椀の飯の有難さを感ずる心を以て、この大千世界の恩恵に泣けるようになって、はじめて人間の魂が生き返る!
というようなことをあのお喋りが言っていた。忘れなければいけない、忘れられなければいけない、忘れるところに総ての徳が育ち、忘れられるところにすべての徳が実るのだ――
こんなことを、あのお喋りがよく言い言いしたものだ。
もし、そうだとすれば、今までわたしに、一別来の安否をも存亡をも忘れさせていたあのお喋り坊主の存在は、わたしの触れて来た人間のうちの、最も偉大なるものではなかったか?
そんなことでありようはずがない、そうだとすれば、最も忘れ得られない存在は、最も下等なものとなるのではないか。
わたしにはそれがあるのよ――憚《はばか》りながらここに至って、お銀様はまた冷笑を以て答えようとしました。
淡きことは水の如く、薄きことは煙の如き存在に比べて、熱いことは湯のように、重いことは鉛のように、濃いことは血のように、旺《さか》んなることは潮《うしお》のように、今もこうしてわたしの身肉に食い入って、わたしをこんなに浮動させている悩ましいこの存在を、お前は知らないの?
あの人の身は冷たいけれども、骨は赤い焼け爛《ただ》れた鉄のようです。あの熱鉄が、ひたひたとこの肌に触れ、この身内がその時に焼かれる、あの濫悩、この黒髪がどろどろの湯になって溶ける悩楽を知るまい。幸内が好きだったのは、どうにでもこちらの自由になるから好きだったのだ。あの人のはそうではない。あの人はわたしをなぶり殺しにするつもりで、わたしを弄《もてあそ》ぶから、それで好きなのだ。だから、わたしもその気になって、あの人の骨身を湯のように溶き崩してやるつもりであの人と取組んだ。弁信さん――お前なんぞが知ったことじゃないよ。
どこへ行こうとわたしの勝手じゃないか。わたしの方でもまた、弁信、お前なんぞが出ようと
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