それで、曾てあの小坊主に対して、一微塵ほどもわたしは敵意を抱いたということがないのは、今になって考えると、深重以上の不思議ではないか。といって、未《いま》だ曾《かつ》てあのお喋りに、わたしというものが言い負かされたと感じたこともない。もとよりそう感じなければこそ、彼の上に暴威を振舞うの理窟がなかったのだけれど――そうかといって、また向うが自分の我儘《わがまま》に屈服したとはどうしても感ずることができない、のみならず、彼のお喋りは多々益々《たたますます》弁じて、こちらが反感を起さないと同様に、彼の論難にも曾て、反感と激昂の調を覚えたことはない。
 それが、実は、今のお銀様のゆゆしき不思議な存在でたまらなくなりました。
 嫉妬、排擠《はいせい》、呪詛《じゅそ》、抗争は、いずれ相手があっての仕事である。
 強かろうとも、弱かろうとも、相手は相手である。勝とうとも、負けようとも、相撲《すもう》にもしようとし、相撲にもなると思えばこそである。比較を絶する大きな存在に向っては、嫉妬の施しようがないではないか。排擠の手のつけようがないではないか。呪詛の、呪文の書きようがないではないか。抗争の足場の試みようもない。
 今やお銀様は、弁信という存在が愛すべきものであるや、憎むべきものであるや、自分はまた彼を愛しつつ来たのであろうか、憎んで来たのであろうか、という差別もわからなくなってくると同様に、彼の存在が、徹頭徹尾、自分の相手でなかったということを感ぜずにはおられませんでした。彼が無辺際に大きくして、自分が相手にされなかったとすれば業腹である。そうではない、彼があんまり小さくして弱いものだから、自分の感情の中へ繰込むに足らなかったのだ。
 可憐なる存在物! その名は弁信。暴君としてのお銀様は、こうも評価して弁信を軽く見ようとしたけれど、召使の女の返答ぶりにさえ動揺する自分として、弁信をのみ左様に小さくして、自分が左様に大器であることに見るのは、常識が許しません。
 彼が無制限に喋《しゃべ》り捨てをした冗談漫語の中には、思い返せば、幾多の明珠があったのではないか。いやいや、その全部が、或いは及びもつかぬ偉大なる説教になっていたのではないか。自分はそれを極めて無雑作に取扱っていたまでではないか。極楽世界に棲《す》む子供には、瑠璃宝珠《るりほうじゅ》が門前の砂となっている。
 彼のお喋り
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