届けていた者に、お銀様がありました。
四十三
お銀様は、土器野《かわらけの》にて行われた味鋺《あじま》の子鉄の磔刑《はりつけ》の場面の最初から最後までを、すべて見届けた一人には相違ありませんでしたが、唯一人とは言えませんでした。見物の大多数の中には、お銀様同様に、ほとんど目ばたきもせずして、この三十槍の残らずを見届けたものが、役向一同のほかに、まだ確かに一人、存在していました。そのお銀様以外の一人というのが、年魚市《あいち》の巻から姿を現わして、岡崎藩を名乗った梶川与之助という振袖姿の美少年でありました。
この少年は今日、足駄がけでやってきて、矢来の外に立ち、大多数がすべて面《かお》を伏せた時も、更にはにかむことなく、じっと眼を凝《こ》らして、人間の死んで行く落ち際の表情を、漏らすことなく見ていたことは間違いありません。
それは、やはり、見るべく見に来たのですから、単に自分の興味のために、或いは後学のために見に来て、滞りなくその目的を果したものですから、三十槍で検視の事済みになると、あとのことは頓着なく、さっさと歩み去って名古屋城下へ来てしまいました。
同じ日のそれよりさき、お角さんは、忌々《いまいま》しがりながら、蒲焼の宿から、お銀様の宿としていた本町の近江屋へ引移って来ました。
それは、明日の出立にまた何ぞ御意の変らぬうち、お銀様の膝元へ落着いてしまった方が安心といったせいもあるでしょう。また、出立についての万端、ここの方が都合がいいことにもよるのですが、磔刑を見物に出たお銀様がまだ帰らない時分に、もう引越しを済まして、出立の荷ごしらえ、あれよこれよと世話を焼いているところへ、
「姉御さん」
といって、つと入って来たのは、土器野帰りの岡崎藩の、美少年梶川与之助でありました。
「まあ、梶川様」
「おばさん、今日は面白いものを見て来ましたよ」
姉御と言ったり、おばさんと呼んだりする、この美少年の心安だてな言葉に、お角さんが釣り込まれて、
「それはお楽しみでございましたね」
「楽しみというわけではないが、滅多に見られないものを、よく見て来ました」
ここまで来てもお角さんはまだ覚めない。
「それはまあ、ようございました、そのお土産話《みやげばなし》を伺おうじゃありませんか」
「実はね、土器野で磔刑《はりつけ》を見て来たのです」
「磔刑
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